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 奥の院前は、通りをはさみ大きな駐車場になっている。
場内整理員に教えてもらった喫煙所で一服をすまし、駐車場の一角にあるバス停で次発が来るのを待った。
折り返しのバスに乗り、運転手さんに「寒いですねエ~」と声を掛けると、「今朝は氷点下でしたから」「高野山はこれから寒くなります、雪もかなりの量降ります」と教えてくれた。
途中乗降者もなく下車する「千手院橋」バス停までは間もなく着いた。

金剛峯寺まで来ると、昨夜ライトアップされていた様相とは違う表門の姿があり、門前の石段には多くの参拝者が訪れていた。
門を入ると早朝の暗闇に姿を隠していた主殿が真正面に建ち、地内には歴史を感じさせる経蔵と鐘楼堂が目に入る。ともに青厳寺当時からあるものだそうだ。

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金剛峯寺は青巌寺と興山寺 (廃寺)を合併して金剛峯寺と改称され、壇上伽藍を中心とする一山の総称で、大門から御廟を含む全山で境内を形成する。
本堂は壇上伽藍の金堂となり、ここ金剛峯寺は総本山金剛峯寺及び高野山真言宗の「宗務所」であり管長が住む(方丈?)寺院となっている。
主殿の持仏の間には本尊弘法大師座像が祀られる。
「宗務所」って?  十分理解出来ていない私的解釈では、たぶん決定権をもつ役員会役員室であり、総務部業務部行政機関としての役割もあり、庁舎であり迎賓館でもあるとしての位置づけかな? 間違っていたらごめんなさい...
山門ではなく表門、本堂ではなく主殿と呼ぶのはその様な理由からではと勝手に解釈しました。
            
主殿脇の参詣口より入館し、案内に従い進むと受付があります。
廊下を先に進むと直ぐに大広間があり、斎藤等室による見事な襖絵が目を引きく。
この大広間では現在も年中行事として法会や問答などが執り行われていると聞く。
2月 常楽会(じょうらくえ)別名涅槃会(ねはんえ) 
4月 仏生会(ぶっしょうえ)
6月 内談議(うちだんぎ)
8月 盂蘭盆会(うらぼんえ)
9月 傳燈国師忌(でんとうこくしき)

大広間の奥に続く梅の間には、見識も無い私でも狩野派の筆ではないかと判るほど見事な狩野探幽の襖絵が描かれ、次室の柳の間には、柳木の豪快に描かれた山本探斉の襖絵が描かれている。
柳の間は「自刃の間」とも呼ばれその所以は、秀吉の跡目と目されていた関白豊臣秀次が突然「秀次謀反」を言い立てられ高野山に追放され、剃髪したが許されず青巌寺(当時は)の柳の間で切腹したことからだという。

IMG_3248別殿の回廊に出ると、目前には約5000坪の広さを有し、石庭では日本一の規模を誇る枯山水庭園の「蟠龍庭」(ばんりゅうてい)が広がる。
白川砂で造られた庭園の中には、花崗岩を巧みに配置することで「雄の龍」と「雌の龍」が対峙する様子が表現され、勅使門より望むと右手に雌龍、左手に雄龍が配され、中央に見る奥殿を守っていると説明にはあるが、別殿回廊からは残念ながら、その様子はおおよその感覚でしか観ることはできなかった。

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別殿から主殿に戻り柳の間を左に折れると、壁が金箔で仕上げられ、天井には装飾が造りこまれた他の部屋とは明らかに違う部屋がある。
「上壇の間」と呼ばれ、天皇が高野山に入られた際に謁見(えっけん)や応接に使用された場所で、現在は重要な儀式の際に使用しているようだ。

「上壇の間」の先には「奥書院」の間があり、皇族の休所として使われ、現在は「上壇の間」と同じように儀式の時に使われている。
落ち着きのある襖絵は「雪舟4代目 雲谷 等益(うんこく とうえき)」とその息子「等爾(とうじ)」の筆。
奥の間には独特な造りの囲炉裏が掘られている様にみえた。

「奥書院」より案内順先に進み右手奥まった大広間の裏手に、独特な構造の囲炉裏がある部屋がある。
奥書院の奥の間にも同じ構造の物があった。
この部屋は保温効果を上げるため土壁で囲まれた部屋になっており、「土室(つちむろ)」とも呼んでいるようだ。
近くに居た暇そうな小坊主さん(失礼な言い方で申し訳ない)に話を聞いた。
・この主殿の囲炉裏・竈(かまど)には排煙を促す筒状の構造が施されている
・「土室」は現在も2月に行われる常楽会の際は、囲炉裏に薪が焚かれ僧侶並びに一般の方々の休憩所として使用され、大広間で行事の際は暖をとるために囲炉裏に火をいれる。
・奥の壁には、弘法大師自筆と言い伝えられる愛染明王をお祀りし、左側に稚児大師をお祀りしている。
等々説明をおこなっていただけた。

「土室」の前、受付の裏手にあたる広い板の間は正直、金剛峯寺主殿を訪れた中で一番興味を引いた場所だ。
案内では台所となっている。
これだけの広さを持つ台所(庫裡)はなかなか目にすることは無い。
まず目についたのが大きな流し(だと思う…)、その奥には三ツ口コンロならぬ五ツ口竈(かまど)。
この竈の前には目測で二間×一間の四方に柱が立ち、床から五尺程の高さより上は四方四面が土壁で母屋まで達している煙抜きが作られている。
煙抜きの床は何枚もの一尺巾板で蓋がされており、一辺一間側には竈があり釜が3つ並んでいる。
「二石釜」と呼ばれるようで、1つの釜で7斗(約100kg)3つの釜で二石(約300kg)、人数で例えると僧侶約2000人分の米が炊けるとか。
現在は使用されていないよう。
釜の後方に廻り煙抜きの床板を開けると階段があり、降りた先が焚口になっているようだ。

寺院を巡り機会があれば必ず庫裡を観ることにしている。
庫裡を観ることでその寺院の生活が見えてくる気がするからだ。
金剛峯寺の台所をみて、この仏教都市の中心を成す存在を十分に実感できた。
訪れた際は是非台所(庫裡)を観ることをお勧めしたい。


 夜行特急列車『銀河』デビューの記事を目にして喜んだのはぬか喜びだった。
2008年3月に廃止となった東京~大阪間 寝台急行『銀河』の再開かと早合点。

現役忙しい時期、翌日必要の資料まとめをしてそのまま22時に事務所を出れば、翌朝7時過ぎには大阪駅に着く。
新幹線の朝一でむかうよりも大阪には早く入れた。前日大阪入りして宿泊するよりも安くあがった。

ぎりぎりまで業務をこなし、翌日休暇を取得して息子の甲子園第一試合観戦の時も『銀河』にお世話になった。
新幹線では試合開始時間には到底間に合わなかった。

いろいろ思い出があり、結構快適だった『銀河』が廃止に成った時は感慨深いものがあった。

勘違いした『銀河』は、来年5月から出雲市(島根)-京都間の夜行特急列車としての運行が決まった、JR西日本の新長距離列車「WEST EXPRESS(ウエスト・エクスプレス)銀河」だった。

インバウンドで海外からの訪日客も激増しているので、JR東日本さん、再開の検討はありませんか。

 中の橋から更に御廟を目指すと、参道を歩き始めてから初めて人?に会う。
御廟の方向から僧侶が下りてきた。
奥の院参拝には、参道の入り口に架かる「一の橋」のたもとまで弘法大師空海が送り迎えをしてくれると言い伝えが残されている。
弘法大師空海の化身?「まさか」である(笑)
足を止め合掌
「おはようございます、御廟まではもうすぐですよ」僧侶より声をかけられた。
挨拶をかわし五六歩進んだところで後ろを振り向くと僧侶の姿はあった(笑)

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松平、豊臣、織田信長の墓碑をみると、その先に御廟橋が見えてくる。
あたりには、まだ参拝に訪れる者はなく、静の中木々の隙間から差し込む光の帯が広がりはじめた。
御廟橋の先は聖域とされている。橋の手前で合掌して渡る。

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正面の燈籠堂へは堂の前に用意される「塗香(ずこう)」をひと摘み掌にのせ、両手で擦り合わせ合掌して堂に入った。

弘法大師は現代においても未だ御廟の中で修行中であるとされており、燈籠堂のロウソクの火は約1200年の間1度も消えることなく燃え続けているといわれる。
また1200年続く儀式として日に二回、毎朝6時と10時30分に「生身供(しょうじんく)」と呼ばれ、大師に食事を運ぶ習があり、年に1度大師が入定した日(石室に入=承和2年3月21日(835年4月22日)には衣服も運ばれ、現在でもこの慣習は欠かすこと無く続けていると聞く。

堂の中央で合掌を行っていると十人ほどの僧侶が現れ諷経(ふぎん)を始めた。
朝のお勤めであろうか、堂内に諷経が響きおごそかで、心が引き締まる。…………が、諷経を終えると落ちがあった。
一人の僧侶がその場で「では本日の予定と………」と朝礼を始めたのだ。
その様を見ておもわず声を出すわけにいかぬが笑ってしまった。
毎朝行われる光景なのだろうが、訪れる多くの参拝者が目にすることはない光景だと思うと何か得をし微笑ましい気持ちになった。
朝礼の邪魔をしてはと笑いを堪え堂の左に出て回廊を裏手にまわった。

燈籠堂の中央真裏には御廟があり、厳密にはその堂舎の地下3mに大師が座しておられるとのことだ。
御廟の前で御廟橋を渡る際に見かけた僧侶が経読を行っていたので、献灯台にロウソクを献灯し線香を常香炉(じょうこうろ)に奉納して僧侶の経が終わるまで合掌して祈らせていただいた。

経が終わるのを待ち回廊を先へ時計回りに進むと再び燈籠堂へ入ることができ、地下へ通じる階段がある。
階段を降りた先が「大師の御影」がある地下の石室になる。
地下には奉納された「燈籠」と「身代わり大師」が並んでおり、その最奥部にお大師さまに一番近づくことができる祭壇がある。
静の地下に私一人、ここでも合掌し祈りをあげさせていただいた。

IMG_3231IMG_3228燈籠堂を出て再び御廟橋を渡り御供所に向かう。
御供所は弘法大師の食事を作っている場所で、食事は歴代の行法師たちの手によって調理されるとの事。
建物自体は奥之院の寺務所も兼ねておりお守りやお札、御朱印などを此方で授与している。

奥の院から金剛峯寺まではバスで戻ることにした。
IMG_3237IMG_3232上ってきた参道を戻り芭蕉句碑あたりで左に折れ下と、先には英霊殿があり、そこから奥の院前のバス停まで出れる。
ようやく参拝者の数も増え始め、英霊殿周辺の紅葉を背景に写真を撮る様子がうかがえた。

 辺りが白み始めたので奥の院を目指すか。
金堂中門を出た際にコンビニを見かけたので寄って朝飯を仕入れておいた。
冷たいおにぎりと茶で朝飯を済まし一の橋に向かう。

金剛峯寺から一の橋まで1㎞ちょい、バックパックは車に残しMOUNTAINSMITHのウエストバIMG_3195ッグに必要な物を詰めて出発する。
ツアー用に作られたウエストバッグでちょいデカいが、こんな時は重宝する。
道の両側は〇〇〇院と幾つもの坊が建ち並び、人通りがまだない通りに、ピンッと張った冷気を感じながら歩いた。

先に一の橋が見えてきた。橋を渡るといよいよ奥の院の霊域に入る。
橋を渡り最初に伊達藩の派手な大きさの供養塔?が目に入る。
先に目をやると鶴田浩二の墓と書かれた小さな墓碑もあった。
??????????? 伊達藩は政宗以降仙台に立派な墓所を持ち、鶴田浩二は生前本人の希望により鎌倉に墓所がある。

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訳が分からず「何で?」を感じながら、今も空海が瞑想をしていると言われる御廟につづく参道をすすむ。
参道が作られたのは平安時代後期から鎌倉時代にかけての様だ。
参道の両側には、戦国武将や大名、歴史に名を馳せる高僧や人物、有名企業が建てた供養塔なども所狭しと立ち並び、その数は20万基とも40万基ともいわれる墓石の幻想的で奇妙な空間が広がる。

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目にするのは朽ちているものも多く、なかには朽ち果て崩れ土に戻る直前の体をなさぬものもある。
多くはそこに安置された事を既に忘れられたかの様に、訪れる者の痕跡は全く無かった。

平安から鎌倉の当初、おそらくはこの参道の通る山に遺骸を埋葬したものだとは想像するが、時代とともに意味合いが変わり、他の地に菩提寺をもち墓所もある武将やら大名、それに企業等々が、ここ高野山に権威・権力の象徴を意図した供養塔を建てたのかと勘繰る。
以前福島県会津に曹洞宗天寧寺を訪れ、その裏山に安置される新選組近藤勇の墓(土方歳三が遺髪を埋葬したといわれる)を訪れたことがある。
山の至る所には何の規律も無く無数に埋葬がされてあり、ややもすると落ち葉に隠れる墓の上を歩いてしまう様な墓所(山)だったのを思い出した。
高野山も当初はそのような形で埋葬がされていた山だったのではないかと想像した。

IMG_3211 IMG_3209一の橋と御廟の間に中の橋がある。
橋を渡す金の河は死の河と称され「三途の川」を言い表しているという。
つまりこの橋を渡り向こうは「あの世」ということだ。
「あの世」に渡ると橋のたもとに汗かき地蔵をお祀りしているお堂がある。
お堂の右側にある小さな井戸は「姿見の井戸」と呼ばれ、井戸を覗きこみ自分の顔が映らなければ三年以内に死ぬと言われている。
私はのぞき込まなかった(笑)

 夜中の三時過ぎに寒さで目が覚めた。
目を覚ましたついでにカーナビで壇上伽藍までを検索すると所要小一時間、このまま高野山まで向かうことにした。
IMG_3170上り始めると街灯も無く結構右へ左へとタイトなコーナーが続き、前照灯たよりの緊張した運転になった。
カーブを抜けた先が白光で照らされ、近づくと闇の中光で照らし出された「大門」があらわれた。
車を降り凍てつく中しばし見入った。

IMG_3175高野山の駐車場の大半は無料なのは助かる。
一番大きそうな金剛峯寺前の駐車場に車を停め高野山を巡ることにした。
向かう途中にライトアップされた金堂の中門に寄る。
正面の小さな駐車場に車を停めると、カメラを抱えて境内に入る人を目にしたので、後に続くことにした。

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中門に安置されている「仁王像」の四体は、光と影のコントラストにより迫力を増して感じる。
境内では根本大塔と鐘楼がライトアップされ、漆黒の中に浮き上がっていた。
境内に三脚を立てこの光景をカメラに収めようと一人二人。
邪魔にならぬように境内を出た。
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IMG_3188金剛峯寺の表門もライトアップされていた。
駐車場に車を停め表門の石段前に立ってみる。
ライトアップに紅葉が映え、高級料亭の入口に見間違えてしまう。
流石に境内の中は照明も無く立ち入る者を拒むように真っ暗だった。
ここでもカメラを構える人が石段の下にいたので、早々に石段を下り車に戻った。

 和歌山まで2時間の列車移動、スケジュールを考えるには丁度良い。
いろいろ考えた末、宿をとるのを止め思い切って車中泊にすることにした。
和歌山からの移動経路を確認中に源泉かけ流しの温泉を見つけたので、今日の疲れを癒すことにした。なんせ還暦を越えた運動不足の年寄りなものでハムストリングがパンパン。

レンタカー屋で経路を教えて頂き温泉に向かった。
和歌山ICから阪和自動車道を使うと有料なので、岩出根来ICから京奈和自動車道を使えば料金がかからないと情報を頂く。ありがたい

かつらぎ温泉久々の温泉、ゆっくりと浸かり今日の疲れは多少癒えた。
施設が閉まるまでゆっくりさせていただき、あとは車で仮眠ときめこんだ。

 東寺の慶賀門より境内を出てバスで京都駅に向かった。
さて今日の宿をどうするか、明日はどうするかと思案するあいだに駅に着く。
西京区、左京区、北区をレンタカーで一気に回るも結構しんどいかも。
今日一日がかりで大原の寂光院から東寺まで三件しか訪問できなかった、そう思ったら全く違うことを思いついた。
「東寺から始まり高野山で終わる」のような文言を東寺を拝観してる間にどこかで目にした。
予定変更バックパックを背負っての一人旅、勝手気ままの自由がある。
時刻表を調べると30番ホームより間もなく出る列車があったので飛び乗った。
明日の行先は京都市内から高野山へと変更になった。

 北大路で14時を少し回り日没まで3時間を切っている。
時間と相談して東寺に向かうことにした。
今日の宿は当日のディスカウントで取る事が出来るので、東寺を観てからでも探すことにした。

東寺南大門京都駅からは一番遠い九条通りに面した南大門より境内に入ることにした。
南大門の両袖に金剛力士像がみあたりません。
明治以前には東大寺南大門と同じ運慶作の仁王像が祀られてあったそうですが、明治元年に南大門が焼け落ち、仁王像も焼失したそうです。
その後門そのものの再建はされず、現在の門は三十三間堂の西門を明治28年に移築したようです。

東寺金堂1南大門をくぐる前から、目に入る巨大な存在の建屋が国宝指定の金堂。
桃山時代の建造といわれる金堂は、文明18年(1486年)に焼失したようで、現存する堂は豊臣秀頼により、慶長8年(1603年)に完成した建物だそうだ。
礎石や基壇、仏壇の位置、大きさ等は創建当時のままだという。
金堂内には、本尊の「薬師如来座像」を中心に、向かって右側に「日光菩薩」、左側に「月光菩薩」が安置されており、本尊の台座には「十二神将像」が配置されている。
不思議なのは、空海が唐から持ち帰った真言密教は「大日如来」が本尊とされるはずだが、東寺の本尊が「薬師如来」なのは何故だろうかと思った。
京の寺院で不思議?を感じて掘り下げると「複雑」に“はまる”ので思うだけで止めておく。

東寺講堂金堂の北側に建つのが講堂だ。
空海によって承和2年(835年)に建てられ「立体曼荼羅」で知れる堂だが、これも文明18年(1486年)に焼失しており、現在の講堂は延徳3年(1491年)に創建時の基壇の上に再建されたものであるという。
「立体曼荼羅」というとその言葉から何か凄いものを連想しますが、布の平面(二次元)に描かれる曼荼羅を、仏像を使用して立体(三次元)に置き換えたものです。
立体曼荼羅構成
壇上中央に「大日如来」を中心としたグループ、右側に「金剛波羅密多菩薩」を中心としたグループ、左側に「不動明王」を中心としたグループが構成され全21体の仏像が安置されているのですが、重なり合う為に全てを一度に観るのは難しいと思います。

堂内に立つと圧巻であり凄いの一言だが、当時の京で、立体曼荼羅などと大掛かりな他に類のない手の込んだものを何故創り上げたのか。
下種な想像をすると、思想とは別にして、空海の野心を見た気がした。
こんな表現を行うと批判もあると思いますが、これは私的妄想で悪意は無くゆえに関係者或いは気分を害された方にはご容赦をお願いしたい。

東寺五重塔3金堂の東側、境内の東南隅に東寺代名詞的存在の「国宝 五重塔」が建っている。
新幹線からも見えるので皆さんご存じかと思う。
天長3年(826年)に弘法大師が創建に着手し、約50年の長年月を経過した後、慶長年間に完成したと伝えられる。
その後、しばしば火災に遭い焼失、再建を繰り返したようで、現存のものは徳川家光の寄進により寛永21年(1644年)に再建したものとされている。
高さは約55mで、現存する木造の古塔では日本一高いといわれる。

日が陰り始める前に京都駅に向かいたい。
南大門から金堂、講堂を結ぶ直線上の最北に食堂(観音堂)があり、そこで御朱印を頂き慶賀門に向かうことにした。

東寺食道食堂(観音堂)は境内のほぼ中央にあり、かつては主要伽藍の一つで、本尊の千手観音像をはじめ重要な仏像も多数あり僧侶が生活の中に修行を見出す場所であったようです。
比叡山での後醍醐天皇との戦で大敗の知らせを受けた足利尊氏は、東寺に本陣を置き、この食堂に居住していたことがあるようだ。
1930年に火災で焼失し、今の建物はその後再建されたもので、レプリカの千手観音像が安置されている。
現在は納経所となっていて、写経場や催し場としても利用されている。

 地下鉄国際会館の駅に着き、さて次は何処へ向かうか・・・・・・・・
自宅を出る前に訪れてみたい先を十数か所リストアップはしたものの、最初に寂光院を訪れる以外は宿泊先も何も決めずに出発した。
大原もそうだが、西京区、左京区、北区の時間を要す所ばかりがリストアップされ絞り込みに迷う。
今日は接続の良い近場を巡り、明日はレンターカーで一気に回るも一案。
まずは北大路へ向かうことにした。

北大路からは歩いても然程距離が無い大徳寺に向かった。
春に訪れた際に総見院を拝観出来ず、改めての再訪となる。
目的は衣冠帯刀の木造織田信長坐像と樹齢400年の侘助椿。

総見院総見院は、信長の一周忌に追善法要の位牌所として秀吉が建立した寺院で、寺名は信長戒名よりとって命名されている。
創建当時は広大な境内に豪壮な堂塔が立ち並んでいたと言われているが、明治初年の「廃仏毀釈」により堂塔伽藍や多くの宝物が廃棄焼却されたようだ。
現在創建時から残る建物は正門、土塀、鐘、鐘楼だけとなる。

総見院本堂正門を入ると直ぐに本堂があり、堂内正面には位牌が並び、向かって一番左に織田信長坐像が安置されていた。
像は信長の等身大で身長は160cm程といわれており、当時の男性では大男の部類になるのではないだろうか。
面は何とも気難しくいかつい表情で、歴史物語に出てくる非情な人物があてはまる面だ。
長興寺に残る狩野宗秀作「信長肖像画」の面とは全くの別人であり、どちらが信長の本当の姿か奇である。

本堂から境内奥の織田家墓地に向かうと、本堂脇に侘助椿を見ます。
秀吉が千利休から譲り受けて植えたといわれ、樹齢400年で日本最古の侘助椿といわれています。
紅白の花が咲き、茶人に珍重される花ゆえ「茶花」と言われる所以であろう。
我が家の侘助椿は淡い桃色の花をつけるが、濃い赤に白が差すここの花も観てみたいものだ。

更に進むと、加藤清正が朝鮮から持ち帰った朝鮮石を彫りぬいた掘り抜き井戸がある。
井戸は結構深くたっぷりと水が湧いていた。
本堂で頂いた茶はこの井戸の水を使い、毎朝のお供えの水にも利用されていると説明があった。
余談になるがその昔京都右京は頻繁に洪水の被害を受けた地域であったようで、大徳寺境内の中を川が流れていた記録もある。
本山参道を境に法堂、山門側は古くから塔頭群もあったが、総見院側は今でいう造成地域にあたり塔頭が建てられたのは後であったようだ。
川は総見院の参道左側の墓地群辺りを北から南に流れていたのではないかと思われる。
…….と滾々と湧く井戸の水はそんな地形が理由かなと余談でした。

総見院信長墓石更に奥へ進むと突き当りに信長一族の墓石(7基)が建っていて、左奥には、正室の帰蝶(濃姫)、側室のお鍋の方の墓碑がありました。
信長の墓は各地にあるのですが、本能寺で遺骸が見つかって無いので諸説色々と語り継がれる事となっています。
総見院を菩提寺とするのは秀吉が「そうしたから」と言うことでしょうが、ここにも信長の遺骸、遺灰は無いので複雑です。

総見院茶室信長一族の墓石群から本堂を挟み反対の境内には茶室が三席あります。
信長を追悼するために開かれた大徳寺大茶会では、ここ総見院で、秀吉が自ら茶をたてたといわれていますが、それは方丈で行われています。
茶室は後に建てられたものですが見どころとしては、一番北にある寿安席(じゅあんせき)には一休禅師の掛け軸がかけられています。
龐庵(ほうあん)には、表千家・而妙斉(じみょうさい)の筆による扁額がかかっています。
香雲軒(こううんけん)には、んンン~ 8畳の茶室と、書院(20畳と12畳)があります(笑)

総見院鐘楼一つ疑問がありちょっと調べてみたのですが判りませんでした。
堀久太郎秀政の寄進による立派な鐘楼は何故塔頭の外にあるのか?
ご存じの方がいらっしゃいましたら是非お教えくださいm(__)m

これも余談ですが、大徳寺を後にする際、高桐院の前を通り参道を覗き入ると、門前の張り紙に「今月10日より拝観を再開いたします」とありました。
「えっ!」一瞬 なんだよぉ~ってな感じ
実は自宅を出る10日程前に高桐院に電話を入れ確認したところ、電話のむこうで愛想のない吾人が「皆目見当がつかない」と話されたので私は「今秋は駄目ですね」と会話をしたのですが、あの会話は何だったのでしょう。
四日後にまた来るかいっ⤴……….思案しながら北大路通りからバスに乗った。

 寂光院の創建については諸説あり明確なことはわかっていないらしい。
聖徳太子が父の菩提のため開創したとされるものが通説のようだが、創建云々よりも『平家物語』に登場する建礼門院隠棲のゆかりの地として知られている。

平清盛の娘建礼門院徳子は、高倉天皇の妻(中宮)で、安徳天皇の生母である。
壇ノ浦の戦において平家一族が滅亡した後は尼となり寂光院で平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈り余生を送っている。
後に徳子をたずねて後白河法皇が寂光院を訪れるが、この故事は『平家物語』諸本、説話集の『閑居友』「大原御幸」の段において語られ物語にある「諸行無常」を象徴している。

寂光院本堂寂光院山門入口になる木戸を抜けると右手に拝観受付があり、正面には石段が真っすぐ三門までのびている。
辺りはまだ色付始めたばかりで紅葉最盛には早かったようだ。
質素な造りの山門の正面に本堂がある。
本堂に進み本尊を拝むと、現代風な表情と色使いであったため、意外であり尼寺ならではなのかと感じたのだが、実は勉強不足で本堂は平成12年(2000年)5月9日の放火で焼失しており、現在の本堂は平成17年(2005年)6月再建されたものだった。
その際に本尊の地蔵菩薩立像(重文)も焼損、徳子の張り子像も焼けてしまっている。
本尊や徳子像も本堂同様に新しく作られたものであった。

寂光院書院と雪見燈籠寂光院諸行無常の鐘・汀の池本堂の前庭は、平家物語に書かれた当時の風景を今に残すと言われています。
後白河法皇は忍びで建礼門院を訪た大原御幸の際、こんな詩を詠んだとか。
「池水に汀(みぎわ)の桜散り敷きて 波の花こそ盛なりけれ」
詩に詠まれた「池水」と「汀の桜」が、今もなおこの庭園に残されています。
他にも平家物語の灌頂巻の一節に
「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる 中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」
平成12年の不審火で枯死した千年超えの樹齢を誇っていた千年姫子松(せんねんひめこまつ)がこの松そのものと言われ、現在は御神木として崇められています。
宝物殿「鳳智松殿」に収蔵される大原御幸絵巻から後白河法皇が訪れた際の様子と、境内の配置など窺うことができる。

寂光院御庵室跡に向かう寂光院庵室頭上境内西側苔むす杉林の中には、建礼門院が隠棲した庵室(粗末な屋)跡を示す碑が建っている。
碑を背に見回したとき、奥嵯峨祇王寺の草庵と前庭の苔むす様子が浮かんだ。
寂光院建礼門院庵室碑寂光院庵室前苔むす平家物語の一節に「たけきものも遂には滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」と訪れた後白河法皇は驚き涙したとされています。

建礼門院庵室の先、境内の一番西側に位置する収蔵庫に、平成12年の火災で表面を大きく損傷し直ちに保存処理がされ永久保存となった旧本尊の地蔵菩薩立像(重要文化財)をガラス越しに観ることができた。
像の体は確り成しており、表面が焼けて黒光りした様子からは一種独特な雰囲気が放たれ思わず合掌してしまった。
旧本尊が損傷する前の写真も展示されてあったが、忠実に再現されたと言われる現本尊よりもあきらかに“らしさ”のある表情の違いを感じこのまま本堂に祀られるべきではと思うのは私だけだろうか。

そうそう、寂光院で忘れてはいけないもう一つ知られる物がある。
建礼門院が,大原の里人から献上された夏野菜と赤紫蘇の漬物の美味しさに感動され,「紫葉漬け」と名づけられ、発祥の地と伝えられています。
ここを訪れる楽しみの一つにしていた「紫葉漬け」の事をすっかり忘れてしまい、寂光院を後にして地下鉄駅まで来たときに思い出したのは不覚だった。

 地下鉄終点駅から出るバスは座席が埋まる程度の乗客を乗せ大原に向け発車した。
乗客は若者が目立つ。
途中「花尻橋」バス停で大方の乗客は降車してしまい、終点大原で降りたのは5、6人だった。IMG_3131IMG_3130
待合所の裏から下り川沿いの小径に向かうのは私だけだった。
早朝の冷え込みは結構厳しいものがあったが、8時を回り大分気温も上がってきたようだ。
人通りの無い緩い上りの小径をのんびりと歩くと小学生が学校に向かうのだろう走って下っていった。

10分ほど歩くと小径のドン突に目的の寂光院があった。
案内が無ければ見落とすほどの木戸は閉ざされており、拝観時間まではまだ大分時間がある。
寺の境内の内とも外ともとれる隣接した石の階段を上り大原西陵の前に立つ。
寂光院の主人公である建礼門院徳子の御陵はささやかな構えでそこにあった。

  IMG_3132   建礼門院徳子御陵参道   IMG_3134