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8-13 高野山にむかう 一の橋から御廟をめざす

 辺りが白み始めたので奥の院を目指すか。
金堂中門を出た際にコンビニを見かけたので寄って朝飯を仕入れておいた。
冷たいおにぎりと茶で朝飯を済まし一の橋に向かう。

金剛峯寺から一の橋まで1㎞ちょい、バックパックは車に残しMOUNTAINSMITHのウエストバIMG_3195ッグに必要な物を詰めて出発する。
ツアー用に作られたウエストバッグでちょいデカいが、こんな時は重宝する。
道の両側は〇〇〇院と幾つもの坊が建ち並び、人通りがまだない通りに、ピンッと張った冷気を感じながら歩いた。

先に一の橋が見えてきた。橋を渡るといよいよ奥の院の霊域に入る。
橋を渡り最初に伊達藩の派手な大きさの供養塔?が目に入る。
先に目をやると鶴田浩二の墓と書かれた小さな墓碑もあった。
??????????? 伊達藩は政宗以降仙台に立派な墓所を持ち、鶴田浩二は生前本人の希望により鎌倉に墓所がある。

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訳が分からず「何で?」を感じながら、今も空海が瞑想をしていると言われる御廟につづく参道をすすむ。
参道が作られたのは平安時代後期から鎌倉時代にかけての様だ。
参道の両側には、戦国武将や大名、歴史に名を馳せる高僧や人物、有名企業が建てた供養塔なども所狭しと立ち並び、その数は20万基とも40万基ともいわれる墓石の幻想的で奇妙な空間が広がる。

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目にするのは朽ちているものも多く、なかには朽ち果て崩れ土に戻る直前の体をなさぬものもある。
多くはそこに安置された事を既に忘れられたかの様に、訪れる者の痕跡は全く無かった。

平安から鎌倉の当初、おそらくはこの参道の通る山に遺骸を埋葬したものだとは想像するが、時代とともに意味合いが変わり、他の地に菩提寺をもち墓所もある武将やら大名、それに企業等々が、ここ高野山に権威・権力の象徴を意図した供養塔を建てたのかと勘繰る。
以前福島県会津に曹洞宗天寧寺を訪れ、その裏山に安置される新選組近藤勇の墓(土方歳三が遺髪を埋葬したといわれる)を訪れたことがある。
山の至る所には何の規律も無く無数に埋葬がされてあり、ややもすると落ち葉に隠れる墓の上を歩いてしまう様な墓所(山)だったのを思い出した。
高野山も当初はそのような形で埋葬がされていた山だったのではないかと想像した。

IMG_3211 IMG_3209一の橋と御廟の間に中の橋がある。
橋を渡す金の河は死の河と称され「三途の川」を言い表しているという。
つまりこの橋を渡り向こうは「あの世」ということだ。
「あの世」に渡ると橋のたもとに汗かき地蔵をお祀りしているお堂がある。
お堂の右側にある小さな井戸は「姿見の井戸」と呼ばれ、井戸を覗きこみ自分の顔が映らなければ三年以内に死ぬと言われている。
私はのぞき込まなかった(笑)