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勝林院正面 昼食をすまして宝泉院に向かうと直ぐに川幅の狭い津川に架かる未明橋を渡る。
橋からは緩い下り坂がまっすぐに勝林院まで続いていて、坂の途中から見える本堂は風格ある構えを見せていた。

これから訪れる宝泉院は、勝林院に四つあった僧坊の一つにあたり、他の三つは坂の途中左にあった実光院に統合されている。
統合された理由は、後鳥羽・順徳両天皇の大原陵を作る際に移動させた事によると何処かの説明にあった。

今回は勝林院本堂とその前庭を入口より眺めるにとどめ宝泉院へ向かうことにした。

宝泉院左に小径を入ると直ぐ右手に宝泉院へと通じる細い路地があり、歩みを進めると枝葉で遮られて外からは見えなかった門が目に入ってきた。
雰囲気のある門だと思ったのだが、ちょっとした疑問が生じた。
僧侶が寝食を行う集団生活の場の僧坊に門が有り、本堂のある勝林院に御門が無いのは何故なんだ?

未明橋より緩やかな坂道を下っていくと、何の障害物も無く勝林院の本堂にまで突き当たる。
毬を転がすと本堂の前まで何もせずに転がっていく様な感じだ。
何か意味があるのかな??? と思ったのだが、深く考えることはせず宝泉院の門をくぐる。

門をくぐると正面の木戸のむこうに樹齢700年の五葉の松が見えた。
五葉松の盆栽を巨大にしたものと単純に思っていたのだが、盆栽として見ると葉先の手入れがされず伸び放題で姿の出来が悪い松にしか見えない。

右手先の広くはない入口から建屋に入り廊下を進むと、左手に見えるのが鶴亀庭園だろうか、池の形が鶴、築山が亀、山茶花の 古木を蓬莱山とみる名園と言われているようだが、「んんン~」凡人は唸るだけだった。
廊下の右手に枠が切られた小さな間口があり、そこで給仕役の女性だろうか顔をのぞかせて「茶をお持ちするので客殿に」と奥へと促された。
間口の奥は居間の様で、住職らしき人物がパソコンに向かい、その奥さんらしい女性は擂粉木で抹茶を更に挽いている様がのぞき見えた。
血天井を意識して廊下を進んだのだが、自刃した血のシミはもはや説明がない限りは判別出来なかった。合掌して廊下を進んだ。

廊下を左に折れると正面に五葉の松の幹が目に入り、客殿に足を入れると右奥へと広がる座敷のその先には五葉の松から連なる盤桓園を望むことが出来る。
柱が視界に入るものの客殿の南庭から西庭が一望できる光景は奥行きこそ無い庭ではあるが、この時期竹林や青もみじと木々の緑のグラデーションとコントラストが目に優しく映り心地よい。

客殿中央の奥に座が設けられ、五葉の松をその座から鑑賞するように成っていたので座って観たが、正直傷んだ幹の修整部分が目立ち、盆栽鉢の内側から見ている様で何と表現すればよいか言葉が出ない。
不思議と拝観者は皆五葉の松を鑑賞していて、西側の盤桓園を鑑賞する者はいなかった。
茶を奨められたのでしばし茶をすすり他の拝観者に逆らうように西庭のもみじを楽しんでいた。

ここの庭を「額縁の庭園」と表現している様だが……………某社「そうだ、京都行こう」のパンフに出てきそうなキャッチフレーズには少々閉口してしまう。
柱と柱の間の空間を額縁に例えたのだろうが、元来日本家屋は障子窓、月見窓、猫間障子などと柱や桟を使い、庭の景観一部を切り取り、掛け軸に見立てるなどの表現技法は古くから用いられている。
ほかに日本らしい奥深い表現は無かったのだろうか………
水琴窟の涼しげな音を耳にして宝泉院を後にした。

宝泉院を出て三千院前の道を戻らず、すぐ脇に農道があったのでそちらを下りバス停に向かう。
時計を見ると三千院を訪れてから半日が過ぎていた。
寂光院を廻る予定でいたのだが、夕方からの予定に時間が足りそうも無く、次回の楽しみとすることにした。


 翌朝は七時半に宿泊先を出て大原へ向かった。
まだ時間が早いのか京都駅地下街の人通りはまばらだ。
「地下鉄・バス乗車一日券」を改札わきにある券売機で買求め地下鉄に乗った。
車両には結構乗客が乗っている、よく見ると学生が多いことに気付く。
京都御所辺りを中心に東西南北と京都駅北域は学校(主に高校大学)が多く点在している様だ。

国際会館駅で地下鉄を降り、バスに乗り換え高野川沿いを更に奥へ進む。
上橋、八瀬駅前までは以前訪れていたが、ここから先に進むのは今回が初めてである。
高野川の流れが進行方向に対し右側から左側に換わると道は細くなった。
バスの乗務員は慣れたハンドリングで軽快に運転をしているが、車速は結構出ていそうだ。
三十分は要していないと思う。車窓の外が開けた光景に変ると大原のバス停に到着した。
田舎のバス停がポツンとある光景を想像していたのだが、降りてみるとバスの折り返しロータリーに成っていて、広い待合所や案内所まで併設していた。
メモで道順を確認して目の前の横断歩道を渡ると、参道への案内板が目に入る。

案内板に従い足を進めると途端に道幅は狭くなり上り道になった。
川幅の狭い小さい川を渡り右に折れると、道幅は更に狭くなり川に沿った道は木々の枝葉が日を遮り、心地よい風を感じながら上りを進んだ。
「あと少しですよ」と開店準備をしていた土産屋の店員が声をかけてくれる。
他に坂を上る人は二人ほどいたが観光客には見えず、土産屋か食事処の従業員ではないかと思う。

三千院門跡バス停から10分ほど上ると「三千院門跡」の碑が建つ開けた場所に出た。
石段を上り切り小砂利の敷かれた道の右側は三千院の石垣が続き、左側は土産屋や食事処が軒を連ねている。
ここへ来るまで、昼飯はバス停近くまで下りなければ摂れないのかと心配したのは全く愚であった。



三千院御殿門「御殿門」を正面に観る。
石垣積みや門の構えは実に堅牢な造りに見え、これが寺院の御門かと思った。
「狭間」が無いだけでまるで城門城壁を連想させる造りだ。


気になったのでほんの少し調べてみた。
・三千院は延暦年間(782‐806)に比叡山東塔南谷(とうとうみなみだに)に始まる。
・平安後期以降、皇子皇族が住持する宮門跡となった。
 門跡(もんせき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院で鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのものの寺格を指すようになり、それら寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。
・時代の流れの中で、比叡山内から近江坂本、そして洛中を幾度か移転し、都度、寺名も円融房、梨本坊、梨本門跡、梶井宮と変わる。
・明治4年、法親王還俗にともない、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額により、三千院と称される。
・明治維新後、現在の地大原に移り「三千院」として1200年の歴史をつないでいる。
・城門城壁を思わせる石積みは城廊技術に長けた穴太衆(あのうしゅう)の手によるもの。
要は、大原の地に根おろした歴史は浅いが、生立ちも、血筋も、高貴な由緒正しい寺なので、それに相応しい風格の造りの寺だと言う事だろう。

「御殿門」をくぐり左へ石段を上ると拝観の受付がある。
受付で写経の申し出を行うと、中に僧侶が居るのでそちらに声を掛けて下さいとの事。
下足をビニール袋に入れ、持って建物の奥に進む。
中書院で案内を行っていた僧侶に写経の申し出を行うと、中書院内の写経場に案内された。
引戸を開けるとけして立派とは言えない、小さく少々暗い部屋に座机が並べられている。
僧侶は簡単な手順の最後に、書写は奉納しますので、上座にある三方に載せて退室してくださいと説明を終え部屋を出て行った。
開かれた障子の外は建屋の隙間に造った粗末な中庭があり、外光が採れる濡れ縁側の座机を前に座った。
時計をみると九時、隣接する客殿には数人が訪れている程で、静かの中で写経を始めた。
凡々な日々を過ごすなかで、筆を持ち、書を行うのは年に数えるほど。不思議と筆を手にすると背筋がのびる。

IMG_2558写経を行うのは初めての事、台紙に目をやる。「魔訶般若波羅蜜多心経」
印刷されているのは般若心経だ。
思想の核となるものを最も短く述べる経と聞いていたが、意味を問いたことは一度もない。
経を胸の中で唱え、正確に写す事よりも自分の字で筆を進める事に集中した。

写経を終え時計を見ると、始めてから一時間以上が過ぎている。
自身では三、四十分で終えたと思っていたので、人の感覚とは如何に曖昧かということだ。
書写を三方に載せ合掌。
頭がスッキリしたのか何なのか、理由は分からないが、写経を終えて爽やかな気持ちに成っていたのは気のせいだろうか。

客殿は既に多くの拝観者が訪れていた。
聚碧園を正面に望める場所には、鑑賞をする人が二重三重と座り、その後ろにも立って眺めているので、庭は人のブラインドで遮られていた。
仕方なく円融房につながる渡り廊下側より鑑賞する事にしたが、臨場感に欠け印象が薄いものとなった。
写経を行う前に鑑賞を済ませておけばよかったと後悔する。
結局正面より庭を鑑賞するのはあきらめた。

客殿から廊下を宸殿に進む。
短い階段を上がると回廊になり、左へ折れ宸殿の正面に出ると宸殿は三間に別れているのがわかる。
左の西の間は歴代住職の尊牌が並び、中の間は護摩でも焚くのだろうか、若い僧侶が忙しなく手を動かし仏具の手入れを行っていた。
右の東の間には天皇陛下を迎えた際の玉座があり、虹が描かれた襖絵があることから虹の間とも呼ばれるようだ。


宸殿を背にして楽しみにしていた有清園を望むと、何と!六月初日から始まった瓦葺き替え工事による、足場と飛散物防止用のシートが視界を塞いだ。
青葉と苔に覆われた静清とした光景がぁ~×○▲■❢❢。。。。。。。。。
楽しみにしていただけに気分は一気に⤵
気を取り直し、宸殿を下り景観を遮る足場の前に出て園庭を観る。
杉檜の枝葉の隙間から木漏れ日が差し、青苔を照らす様は期待通りのものがあった。

三千院有清園左  三千院有清園中  三千院有清園右
来年の今頃は工事も終了する予定なので、再訪の機会には宸殿の回廊から一望してみたいものだ。

有清園の緑の空間は「往生極楽院」から「朱雀門」「わらべ地蔵」の弁天池まで続いている。
往生極楽院には国宝に指定される阿弥陀三尊像が納められており、天井には天女や菩薩が描かれ極楽浄土の様子を表していると説明にはあるのだが、描かれる天女や菩薩の姿は堂の下からは見て確認は出来なかった。
阿弥陀如来像は、堂の納まる間とのバランスが悪いのか異様にデカく見える。
一見愛嬌のあるお顔にも見えるが、瞼が下がり薄目を開けてこちら側を見下ろす表情は、体がデカい故に一層不気味に見えてしまう。
熱心な信者でも無く未熟者ゆえご勘弁いただき、合掌してその場をはなれた。

さて順路に従い次は弁天池脇へ。
カメラを構える女性で、そこだけが人だかりになっている場所には「わらべ地蔵」が見えている。

三千院わらべ地蔵   わらべ地蔵 2   わらべ地蔵 1
老いも若きも女性はみな同じように「可愛いィ」を連呼して、何体在るのか分からないがアングルを替えて写真を撮っている。”インスタ映え”と言うやつか。
寺の職員らしき人に後で聞いたところ、弁天池脇には六体の地蔵があるようだ。
実は同じような地蔵は往生極楽院の東側の斜面や石仏周辺にも有るそうだが、関心は全く持たれていない様である。
認知度が乃木坂46と地下アイドル以下の差、とでも言う事なのだろう。

ここまで観て拝観目的をほぼ満足したのだが、この時期あじさい苑も立派だと聞いた。
私の住む地域には市町村数が三十三あり、あじさいで有名な寺や公園等がいくつかある。
比べるわけでは無いが話のネタにでもとあじさい苑を観て回ることにした。
途中に弁財天が祀られる前を通る。
京都七福神の一だそうだ。商売人の方は足を止めお参りされてはいかがだろう。

三千院 あじさい苑あじさい苑は金色不動堂下の西に面した斜面(たぶん)にあり、一面に花が咲き誇っていた。
杉檜の山間に、あじさいがこれだけ纏まって咲いているのは結構圧巻であった。




ここまで境内の奥へ上がってきたので、折角だからと観音堂まで歩いた。
あじさい苑より奥に建つ堂等はごく最近になり建てられたものばかりで、保管される秘仏などを除くと興味をひく物も無く、ほぼ素通りをして朱雀門まで戻った。

三千院 朱雀門庭園内より境内から観る朱雀門は朱塗りが強いだけの小さな門としか見えず、門の両脇にある石垣も周囲の樹木や苔で覆われ存在を隠している。
門を背にすると参道は真っすぐと往生極楽院につながり、周囲は有清園から連なる緑の空間が広がっている。
脳裏に光景を焼き付けて境内の拝観を終える。

御殿門を出て石垣伝いに左へ足を進めた。
今朝見た「三千院門跡」の碑を左に巻き、人通りの無い、樹木に覆われる狭い上り道を行くと左手に石段が見える。
三千院 朱雀門境内外より正面に立つと、朱塗りの門が両脇を堅牢な造りの石垣で囲われ、苔で覆われる石段と調和して神々しい姿を魅せていた。

今は閉扉されている朱雀門だ。
境内から観た印象の薄い門からは、これだけ主張している様子を想像することができなかった。

かつてここを訪れた者は、この神々しい門をくぐり、緑の神秘的な光景が広がる境内の中を阿弥陀如来像が鎮座する極楽院の前まで進んだ。
そこは極楽浄土に舞う天女や諸菩薩が描かれ、訪れる者を極楽浄土へと導き安らぎを与えたのだろう………………………………………などと妄想をしてみた(笑)

門を後にする前に今一度辺りをゆっくりと見廻す。
樹木に覆われたうす暗い上りの小径、強烈な異彩を放つ朱色の門、神秘的な緑の空間、如来像の穏やかな面、天女舞う本堂。
「んっ」と思った。
全てが巧みに計算された演出か………………………………………と。
俗世に生きてきた者はどうも素直に物事を見ないようだ(笑)
時計を見ると12時を指していた。
丁度昼時、軒を連ねる食事処で飯にすることにし、三千院を後にした。

 掛川辺りから黒い雲が厚く覆う空模様にかわり、浜名湖を通過する頃には大粒の雨が激しく降り始めた。

梅雨入り後の天気の隙を狙い、初夏の京都へ旬を求めて小旅行を決めたのはほんの数日前。
毎度の事、思い立つと矢継ぎ早に宿泊先と料理店の予約を済ませる。
紅葉時期に利用した同じ時間帯で京都に向かう新幹線に乗車した。
何故この時間帯かと言うと、空いていた記憶があったからなのだが、平日の利用にもかかわらず予想に反して結構な数の乗客が乗っていた。
短い時間ではあるが楽しみにしている京都への小旅行だ、静かに目的地での計画を確認しながら移動したいではないか。
団体の乗客もいるようで少々不安を感じながら席に着く。

案の定、掛川を過ぎた辺りから後方の13列周辺で10人程のグループの雑談の声が大きく成り始めた。
60代男女のグループだろうか出発直後から缶ビールを飲んでいたようである。
結構出来上がっている者も居た。
1列C席の70代であろう男性も携帯電話で大声の会話を始め、切っては掛けを名古屋に着くまで幾度となく繰り返した。
天気への不安も重なり不快な気分でのスタートとなる。

グレーな気分で京都駅のホームに降り立つ。
幸いにして駅周辺は雨もなく一先ず宿泊先のホテルに荷物を預け再び京都駅へ戻った。
早めの昼食を連絡路わきのベーカリーで摂り、今日の目的地までの経路を確認して早々に近鉄線改札に向う。

祇園祭にはまだ日もあるためか観光客は思っていた程多くは感じなかったが、それでも隣国漢字圏からの訪日客姿は往来する人波のなか目立つ存在だった。

近鉄線で移動する三~四十分の間、車両を打つ激しい雨にみまわれ、梅雨の隙をついての旅行計画にはやっぱり無理があったかなと少々後悔をし始めていた。
降車駅のホームに立つと雨の降った様子は無く、まだ運はあったようだ。
強い湿気の蒸し暑さで、体はすぐに汗ばんできた。

新田辺駅前改札を出て階段を降りると駅前に広いバスロータリーとタクシー乗り場があったのはちょっと意外である。
京都駅から三~四十分の距離、片田舎の小さな駅と勝手に想像していたのでここを利用する方達には失礼であった。



目的地までの経路検索は済ませてあるのだが、念のためバスの案内板と時刻表を確認する。
バスの時間に少々間があり、徒歩20分か乗り物を利用するかそこで迷ってしまった。
客待ちのタクシー運転手と目が合う。 期待させてしまったようだ。
タクシー運転手には申し訳ないが結局バスで移動することにした。
降車停留所は判っているが、乗車の際念のために乗務員に尋ねると「下車する停留所に着いたらお伝えします」と親切に応対してくれる。
幾つかの停留場を過ぎ、調べてあった停留場まで来たが乗務員からの案内が無い。
安心が不安に変わる。
次の停留所で乗務員から「ここで降りてください」と案内がありホッとして席を立つと、前の席に座る歳行った婦人が「あそこの角を曲がれば直ぐですよ」と指さし教えてくれた。
乗務員とのやり取りを聞いていたようだ。
旅をするとその土地で受ける親切は本当に有難い。

教えて頂いた角を曲がり、人通りも車の出入りも無い舗装された小道を三四分ほど歩く。
緩やかな左に曲がる道の先に、本日の拝観先である臨済宗大徳寺派の寺院「酬恩庵」の総門が静かに迎えてくれた。

迎えてくれた酬恩庵総門      酬恩庵総門の正面に立つ       
総門正面に立つと石敷の緩やかに上坂の参道は楓の枝葉で低く覆われ、どこまで続くのかと奥行きを錯覚させる。

酬恩庵のなだらかに上る参道      酬恩庵本堂に一直線に続く参道
坂を上り詰めて右に折れると、本堂へ真っすぐ続く参道は石垣と白壁の間に苔と楓が配された落ち着きの空間を作り出している。


IMG_2367参道を進むとすぐに宗純王廟(墓)がある。
宗純とは一休宗純である。漫画でもお馴染みの一休さん(一休禅師)のお墓である。


「酬恩庵」の歴史を端折って記すと、元の名は妙勝寺、鎌倉時代に臨済宗の高僧が禅道場として建てたが、その後元弘の戦で荒廃。
1455-1456年に一休さん(63歳)が再興して「酬恩庵」と命名。
88歳没までの25年を過ごした事から後に「一休寺」の通称で知られるようになったそうだ。
81歳で大徳寺住職となりこの寺より通ったと説明書きにあったが、方丈内に展示される輿で通ったにしても片道五時間近くの道のり、本宅と別宅の使われ方であったのだろうと推察する。
話しはまだ続きがあり、一休さん没後134年後の元和元年大阪夏の陣の際、加賀三代藩主前田利常公が参詣で立寄り寺の荒廃を嘆き、一休禅師への崇敬の念より再興に乗り出し、更に35年後寄進により再建されている。
前田家の立回り如何では再興は無かった話かと思うとこの寺の歴史は面白い。


庫裏一休禅師の墓から更に足を進めると方丈への入口がある。
石段を下り、右手の唐門をくぐるのが本来だろうが現在閉ざされており、庫裏と称す建物から入館した。
下足棚の置かれる土間はよく見ると釜の焚き木をくべる口が三つ見る事が出来、勝手口から入ったことに気が付く。
黒光りした床板、煤で慰撫された梁や天井はまさに台所であり時食を整える場であった。
庫裏から引き戸一枚を抜けると、右手に南庭が観える。
真っ直ぐ進むと軒下は回廊になっており、方丈をぐるり廻る廊下の造りに成っている。

中央の一室は昭室と呼ばれ、奥まった高座には一休禅師の木像が安置されているが、あまりにも写実的な木像であったので、高座から「おっちゃん」に説教をされている感覚になった。
部屋を仕切る襖には狩野派の手による水墨画が描かれている。
狩野派と言えば豪華絢爛な色調による花鳥風月のイメージもあるが、水墨画の地味で奥行きを感じさせる描写によって空間に広がりを創り出している。

木像を背に南庭を眺める。
庭は方丈の周りを南東北と三つが囲むように配され、南庭はその面積が一番広くとられている。
白砂の敷かれる面積が大きいので龍安寺の様な枯山水かと思いきや、宗純王廟を背景にした、北側斜面に大小の玉造された「さつき」が植えこまれたさっぱりした庭である。
右隅に蘇鉄の木が植えられているが、素人のわたし的には楓もみじかマキの方が落ち着いたバランスに成るのではと思ったのはやはり素人だからだろう。
庭が広く取られている分ここちよい風が通り、居心地が良かったのでしばらく胡坐をかいてポツンとしていた。
回廊を左に回ると奥行きの狭い参道との隔たりを作る塀に沿った東庭が現れる。
説明では配置された大小の石が十六羅漢【釈迦より命をうけ正法(仏教の正しい教え)を守り、衆生(迷いを解く)役の16の弟子】をなぞっているとあったが、正直私には判らなかった。
更に回廊を左に回ると、そこはこじんまりとした北庭がある。
右奥の高位置に配置された巨石からは落水をイメージでき、水墨画を観ている様な雰囲気の枯山水庭園である。
庭園の説明では三つの庭は三名士による合作とされ、江戸初期のものとしては第一流で知られるとあるが、悔しいが私には良さを感じ取ることが出来なかった。

方丈を出て参道を奥に進む。
鐘楼は外観をぐるり見たが、だいぶ虫食いが進んでいるのがわかる。
慶安3年(1650年)前田家が新築と記録にあるが、370年近く修復は無かったのだろうか。

正面本堂に続く参道更に奥へと進むと小門があり、そこから望む本堂は画になる。
本堂の中を観ると、失礼ではあるがお勤めが行われているのか否か、手入れが成されている様に思えない。




本堂から右手に宝物殿、その奥に開山堂が配されている。
宝物殿は自由に出入り出来るようであり、下足を脱ぎ内観する。
監視カメラと警報装置はあるようだが方丈を出てから寺の関係者らしき人物は一人もみていない。
開山堂は大正時代に修復改築を行ったようで、しっかりと美しくそこに建っていた。
が………堂の裏に回ると一階軒は腐食が進んでいる様子で傾斜して崩れ落ちそうに見える。
シートがかけてあり雨による浸食を防ぐ策は行ってあったが早い修復が成されることを期待したい。

開山堂から右奥に進むと池に行きあたる。
時期が合えば睡蓮の花が鑑賞出来ただろうが時期を逸していた。
池の前に少年一休像が建っている。
頭のてっぺんがピカピカに光っているのは、拝観者が皆個々の思いを願い撫でて帰るからだそうだ。
私もあやかって頭と言わず顔中撫でまわしてきた。

順路に従い進むと小さな渡しがあり、立て札にはお馴染みの「このはし渡るべからず」が書かれていた。
一休禅師にならい真ん中を堂々と渡ってきた。

拝観中に訪れた方は一人も無く、二時間少々の時を貸切状態でゆっくりと拝観させて頂いた。

「酬恩庵」は派手さを感じず、「地味で質素」な寺のイメージが強かった。
方丈には狩野派の襖絵はあったが、鴨居の上には欄間もなく屏風で仕切る様な感覚を受け、三つの庭は江戸初期のものとしては第一流の評価だが、くせのないさっぱりとしたややもすると印象の薄い造りだ。
総じて「あるがまま」「なすがまま」の言葉が浮かんだ。
一休禅師の寺。
そう思えば何となく納得してしまい、贅沢な時を過ごさせて頂けた事に感謝して寺を後にした。

宿泊先で着替え錦市場界隈で夕食でもと京都駅に戻るとあいにくの雨。それも結構な雨量。
外での食事を断念して今日は宿泊先ですまし明日の天気を心配しつつ就寝することにした。

 朝の5時からカラスが騒いでいた。
半時ほど後に、家人がマキの木に巣つくりしていたキジバトの二羽の雛が見当たらないと騒ぎ始める。
親バトの姿は巣に無かったが、近くの木にでも止まって居るのだろう、鳴き声だけは聞こえていた。
しばらく様子を見ていると、親バトが巣に戻り四方を探すような仕草をして鳴き続けた。

隣家の屋根にはカラスが三羽止まっている。
どうやら親バトが餌を捕りに巣を離れた隙にカラスが襲った様である。
五時間ほど親バトは、空に成った巣に出たり入ったりを繰り返し、まるで雛を呼ぶ様な仕草で四方に向かって鳴いていた。

人間の保護もない自然界では毎日起きている現実ではあるだろうが、流石に自宅の庭で起きた事実にショックであった。
キジバトは人間に近い所で子育てを行えば、外敵のリスクは少ないと本能から我が家の庭を選択したのだろうか。
もしそうであったら何て悲しいことだろう。

親バトの姿は見えないが、近くの木にでも止まって鳴(泣)いていたのだろう。
その鳴(泣)声を最後にキジバトの姿が自宅の周辺より見えなくなった。

増えた居候

2018年07月04日
 旅先から帰宅
マキの木を見るとキジバトが何やらモゾモゾと動いている
注視すると雛が二羽、親バトに餌をせがんでいる
不在中に卵から孵ったようだ
何事も無く巣立ちを迎えてほしいものだ

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