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身延山を御参り 前

 朝夕肌寒さを感じる陽気になった。
8月盆に姪の来宅訪問を受けた際、見慣れぬ車両で来ていたので姪の愛車の話となった。
以前に乗っていた車両もまだ持っていると言うので、陽気の良い間にShort Tripに貸せと承諾をとりつけておいた。

10月第二週、台風14号発生の予報を聞いて今シーズンは今しか無いと、翌朝7時には中央高速道を借用した単車に乗り甲府に向かっていた。RZ250初期型0001
この手の単車に乗るのは40年ほど前の愛車YAMAHA RZ250以来である。
2ストのRZとはだいぶ勝手が違い、大排気量でトルクのある4ストは実に楽である。
某自動車メーカーで二級整備士として活躍していた姪だけあって整備は万全文句なし。
単車の調子はスコブル良いが、乗っている方はとうに還暦を超え、運動不足と十数年ぶりの乗車に、操る側には大夫不安が残る。

IMG_3552その1Tシャツの上にリーバイスのGジャンを羽織る出で立ちでは少々寒いかと思いきや、風が実に気持ち良い陽気に気分は盛り上がる。
周囲の車速に合わせた単調な走りに飽き始めた頃、甲府南で高速を離れ、R140⇒R52を富士川沿いに身延山へ向かう。

IMG_3555その1R52を県道に逸れしばらく後、日石SSを右に折れると日蓮宗総本山久遠寺の総門が目前に現れる。
境内入口にそびえる総門は、28世日奠(にちでん)上人が寛文5年(1665年)に建立したとされている。

甲斐国巨摩郡飯野御牧内にある波木井郷(現在の南巨摩郡身延町梅平一帯)の地頭職であり、日蓮を庇護し信仰した有力壇越として知られる南部実長(なんぶ さねなが)が、鎌倉幕府に迫害され後に流罪を解かれ佐渡国から鎌倉に戻った日蓮聖人を文永11年(1274年)波木井郷へ招き、身延に迎えるときこの場所で対面したといわれている。
当初総門の屋根は檜皮葺だったようで、両脇の袖塀は後世に足されたものであるようだ。
近年傾いた控柱、腐朽の進んだ屋根などの保存修理工事が行われ、外観は当初の形を残すものであると何かの記事で見た記憶がある。

正面の扁額に記された「開会関(かいえかん)」の三文字は「一切の人々は、法華経の信仰によって仏になる」という意味で、この門を潜ることが即ち、仏の世界(あの世)に入ることであると意味している。

早速あの世へと門を抜けると、人通りのない狭い路地の両側に門前町らしき街並みが現れるが、どこの家屋も閉ざしており何とも活気のない、鄙びた温泉街を思わす光景の中を進む。
IMG_3559その1正面に階段が現れると道は細く右にクランクして、抜けるといきなり三門があらわれたのには意表をつかれた。

身延山久遠寺の三門は日本三大門の一に数えられている。
京都・南禅寺(臨済宗)、京都・知恩院(浄土宗)、山梨・久遠寺(日蓮宗)人によっては京都・東福寺(臨済宗)を数える方もあるようだ。
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三門正面に回りじっくりと眺めると、何故三大門に数えられているのかと思ってしまう。
大きさ、雅美しさ、迫力と、どれもさきにあげた三門に及ぶとは思えない。
個人的には南禅寺の三門は迫力に勝り好きである。
雅さでは思遠池正面より望む東福寺の三門が印象深く、大きさを誇るのは知恩院三門だろう。

IMG_3567その1お許しいただき表現すれば、侘しさと閑寂な様相を感じさせ、この辺境の身延で「侘・寂」感はピントこない。
それでも周囲の間近に迫る山と、三門より臨める杉並木と石畳の参道が妙にマッチしている。
建立は寛永十九年(1642年)とされているが、慶応元年(1865年)に焼失し、明治四十年(1907年)に再建されている。

三門を潜り日朝上人お手植えの杉並木を進むと、還暦をとうに超えた年寄りに、壁の様に行く手を遮る菩提梯(ぼだいてい)という試練が待ちうけていた。
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