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 菩提梯(ぼだいてい)とは、段差が大きく一段が約30cm、石段数は287段、高低差104m、傾斜角50度の非常に急な階段で、菩提=覚り、梯=かけはし を意味している。
「南無妙法蓮華経」のお題目、7文字を41遍唱えるとちょうど割り切れるため、 一段一段お題目を唱えながら上ると良いと言われている。
※(「妙法蓮華経」の五字には、お釈迦さまが多くの人を教え導いた智慧と慈悲の功徳が、全て備わっているといわれています)

演出としては、三門でお釈迦様、十六羅漢によって菩提に導かれ、菩提梯を上り悟りを得、久遠寺境内という浄土へ達するという流れでしょうか。

その2見上げると、上りきる辺りを這い上がるように上に向かう四人ほどのグループが見えた。
着衣の配色から察すると同年代かそれ以上。
ならばと勢い年齢も考えずに菩提梯を行き帰りと往復した。
結果翌日は大腿四頭筋、下腿三頭筋はパンパンに痛みを伴う張りを起こし、膝関節はガタガタ。
一週間経って緩和したものの、後を引く始末となった。
普段運動不足の方(特に還暦過の方)は無理をなさらず男坂か女坂を上ることを強くお勧めいたします。
(*車でお越しの方は、有料駐車場より斜行エレベーターで本堂脇に出るルートもあります)

菩提梯を上りきると正面が本堂、左手に朱の際立つ五重塔、右手には水屋と大鐘がある。

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身延山は寛保4年(1744年)から明治8年(1875年)の間に7度の大火をうけ施設の大半が被災している。
中でも文政12年(1829年)五重塔から出火し28棟を焼失し、山内寺中町方の大半も焼失。慶応元年(1865年)中谷の仙台坊から出火し支院17坊小堂8棟を焼失し、さらに延焼して上町、中町、上新町、横町、片隅町、下町の計100軒以上が焼失した。二つの大火は壊滅的なものであったようだ。
朱色の際立つ五重塔は、元和5年(1619年)建立の後二度の焼失を受け、近年2009年に再建されていた。

前回身延を訪れてから30年が経つ、本当にご無沙汰してしまった。
前回は御開帳を受け祈願を行い、御参りの後は温泉に浸かり宿泊という余裕ある日程で訪れたが、今回は日帰りの予定で参拝したため、そうゆっくりは出来ない。
菩提梯での息切れが治まるのを待ち本堂に向かった。

本堂の前では、ご夫婦らしき二組の男女が合掌して別々にお題目を上げていた。
一組はお年を召しており、もう一組は私より少し上ではないかと思えた。
私も合掌して故人に冥福を上げる。

本堂を離れ祖師堂から仏殿とお題目を唱え回り、御廟に向かう前に奥の院にも寄ることにした。
さすがに二時間余をかけて参道を行く時間も元気もない。
ロープーウェーを使い山頂まで7~8分で到着。

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ここまで来てようやくある事に気づいた。
久遠寺をお参りされている方達は宗徒が多い。
京都などの寺院は観光寺院を前面に出しているので、各地から老若男女が観光を目的に訪れているが、久遠寺は観光寺院のそれとは雰囲気が違う。
辺境の身延という地であっても、ユネスコの文化遺産に名でも挙がれば様子は違っているだろうが。
それでも絶え間なく訪れる者があるのは、日蓮宗の信者の多さかあるいは信仰の根強さだろうか。

奥の院のお参りを終え御廟に寄る。
日蓮聖人が身延入りしてこの西谷に草庵を構え修行にはいり、今の池上本行寺で病に倒れ亡くなるまでの9年をこの地で過ごしている。
「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は身延山に祀られた。
IMG_3600その2久遠寺の基はこの御廟所域に建てられたお堂を日蓮聖人が「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたのが始まりであり、身延山久遠寺は、まさにこの場所から始まっている。

山あいにある参道には、本堂境内や奥の院を訪れていた参拝者の姿は無く、静寂な空気の中、ときより鳥の鳴き声が響いていた。
IMG_3601その2常唱殿(御廟法務所)のある広く開けた先に霊山橋が架かり、その先が祖廟の建つ聖域になる。
祖廟は山峡の奥まった地にある
参道から拝殿に向かうあいだ誰一人会うこともなく、不思議な時間と空気を感じていた。

IMG_3602その2拝殿前の石段を上ると中央の礼盤?に静座し祈りを唱える先客が居た。
背後に気配を感じたのか、祈りを止め座を崩し拝殿を後にされたので遠慮なく祖廟塔(御墓)正面で合掌する。
人生百歳などと言われる昨今、疾うに折り返しは過ぎ終活に入る年齢になっているが、悩み、心配事は欲張って人並以上にある。
IMG_3603その2祖廟塔に向かい腹の底から諸々吐露し聞いていただいた。

参拝を終え拝殿の石段を下りると向こうから先ほど居た女性がすれ違いに上って来た。
少し離れた処から振り返ると、礼盤?に静座し祈りを始めていた。
どうやら中断して私に場を譲っていただいたようだ。

参拝を終え時間を見ると、日のあるうちに帰宅するにはギリギリの時間になっていた。
帰りは本栖を経由して富士山をみて帰ることにした。
健康で足腰の確かなうちに七面山にもお参りにうかがいたいものだ。
「心身ともに鍛えが足らん」と日蓮上人に指摘されたようである。
あと30年を目指し奮起せねば。

今日一日天候に恵まれたことに感謝して身延山を後にした。 合掌


PS:本栖湖では残念ながら富士山は姿をみせてくれませんでした。

IMG_3608最後に


 朝夕肌寒さを感じる陽気になった。
8月盆に姪の来宅訪問を受けた際、見慣れぬ車両で来ていたので姪の愛車の話となった。
以前に乗っていた車両もまだ持っていると言うので、陽気の良い間にShort Tripに貸せと承諾をとりつけておいた。

10月第二週、台風14号発生の予報を聞いて今シーズンは今しか無いと、翌朝7時には中央高速道を借用した単車に乗り甲府に向かっていた。RZ250初期型0001
この手の単車に乗るのは40年ほど前の愛車YAMAHA RZ250以来である。
2ストのRZとはだいぶ勝手が違い、大排気量でトルクのある4ストは実に楽である。
某自動車メーカーで二級整備士として活躍していた姪だけあって整備は万全文句なし。
単車の調子はスコブル良いが、乗っている方はとうに還暦を超え、運動不足と十数年ぶりの乗車に、操る側には大夫不安が残る。

IMG_3552その1Tシャツの上にリーバイスのGジャンを羽織る出で立ちでは少々寒いかと思いきや、風が実に気持ち良い陽気に気分は盛り上がる。
周囲の車速に合わせた単調な走りに飽き始めた頃、甲府南で高速を離れ、R140⇒R52を富士川沿いに身延山へ向かう。

IMG_3555その1R52を県道に逸れしばらく後、日石SSを右に折れると日蓮宗総本山久遠寺の総門が目前に現れる。
境内入口にそびえる総門は、28世日奠(にちでん)上人が寛文5年(1665年)に建立したとされている。

甲斐国巨摩郡飯野御牧内にある波木井郷(現在の南巨摩郡身延町梅平一帯)の地頭職であり、日蓮を庇護し信仰した有力壇越として知られる南部実長(なんぶ さねなが)が、鎌倉幕府に迫害され後に流罪を解かれ佐渡国から鎌倉に戻った日蓮聖人を文永11年(1274年)波木井郷へ招き、身延に迎えるときこの場所で対面したといわれている。
当初総門の屋根は檜皮葺だったようで、両脇の袖塀は後世に足されたものであるようだ。
近年傾いた控柱、腐朽の進んだ屋根などの保存修理工事が行われ、外観は当初の形を残すものであると何かの記事で見た記憶がある。

正面の扁額に記された「開会関(かいえかん)」の三文字は「一切の人々は、法華経の信仰によって仏になる」という意味で、この門を潜ることが即ち、仏の世界(あの世)に入ることであると意味している。

早速あの世へと門を抜けると、人通りのない狭い路地の両側に門前町らしき街並みが現れるが、どこの家屋も閉ざしており何とも活気のない、鄙びた温泉街を思わす光景の中を進む。
IMG_3559その1正面に階段が現れると道は細く右にクランクして、抜けるといきなり三門があらわれたのには意表をつかれた。

身延山久遠寺の三門は日本三大門の一に数えられている。
京都・南禅寺(臨済宗)、京都・知恩院(浄土宗)、山梨・久遠寺(日蓮宗)人によっては京都・東福寺(臨済宗)を数える方もあるようだ。
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三門正面に回りじっくりと眺めると、何故三大門に数えられているのかと思ってしまう。
大きさ、雅美しさ、迫力と、どれもさきにあげた三門に及ぶとは思えない。
個人的には南禅寺の三門は迫力に勝り好きである。
雅さでは思遠池正面より望む東福寺の三門が印象深く、大きさを誇るのは知恩院三門だろう。

IMG_3567その1お許しいただき表現すれば、侘しさと閑寂な様相を感じさせ、この辺境の身延で「侘・寂」感はピントこない。
それでも周囲の間近に迫る山と、三門より臨める杉並木と石畳の参道が妙にマッチしている。
建立は寛永十九年(1642年)とされているが、慶応元年(1865年)に焼失し、明治四十年(1907年)に再建されている。

三門を潜り日朝上人お手植えの杉並木を進むと、還暦をとうに超えた年寄りに、壁の様に行く手を遮る菩提梯(ぼだいてい)という試練が待ちうけていた。
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