本日 55 人 - 昨日 12 人 - 累計 58506 人
 朝の8:10分、烏丸今出川交差点のバス停で賀茂大橋方面へ向かうバスを待つ。
河原町今出川交差点まで二停留所の距離だが、今朝は流石に歩いて向かう気にはなれない・・・・と言うよりも歳のせいか体が拒否していた(笑)

出町ふたばの店先には既に10人ほどが列を作っていた。
流石に観光客は見当たらず皆常連の様子だ。
事前に連絡してあったのだろう。名を告げて包装された菓子を受け取り支払いを済ましている。
そんなわけで私の順番は直ぐに回ってきた。

出町ふたばの豆餅ふたばの名代といえば、やはり「豆餅」(だいふく)だろう。
赤エンドウは、しっかりとした歯ごたえが残り、程よい塩味と餡の上品な甘さ、その餡を包み込む餅の弾力が絶妙なバランスの逸品。
豆餅22個と赤飯で締めて¥4,900-
紙袋を携え横断歩道を渡り、地蔵尊の脇を抜け賀茂川河川敷のベンチへ直行。
今出川駅で仕入れていた茶と、紙袋から豆餅二つを取り出し早速いただく。
年甲斐もなく豆餅二つはあっさりと胃袋に収まった。

次は何処に向かうか?
慈照寺近く、鹿ヶ谷通り沿いの和菓子店に行くか。
丸太町駅からチョイ歩き、釜座通(かまんざどおり)裏手、西洞院通りにある老舗店に行くか
帰り時間の都合と初物を頂くことで丸太町へ向かうことにした。

再びバスで今出川の駅へ。
丸太町駅からは丸太通りを二条城方面に歩く。
本番前とは言え、京都の夏を感じさせる陽気に、手拭で汗を拭きふき歩くことになった。
IMG_3533IMG_3532釜座通りをやり過ごし、一方通行の出口を右折して西洞院通りに入ると、間もなく目的の店「麩嘉」本店が見えてきた。
住宅街の中に如何にもと存在感のある造りの家屋なので直ぐに判る。

「麩嘉」は京の食材で欠かすことの出来ない生麩を扱う専門店だ。
京より東国の地域では生麩といっても馴染みの薄い食材になるが、こと京都の食では語りきれぬ程の歴史と文化の詰まった食材だ。
その生麩専門店が甘味の「麩饅頭」なるものを提供している。
どうやら生麩が好物であった明治天皇のアイデアでつくられるようになった様だが、今や凡人の私でも知る一品なので、京を知る方達にはメジャーな存在だと思う。

今更説明は不要と思うが念のため。
「麩嘉」本店は造り処であるため、陳列ケースも無ければ飲食設備もない。
基本的に本店では小売りは行っていないのだが、唯一予約を入れて購入数量を注文しておくと嬉しいことに対応をしていただける。
その場で食す事も予約で伝えておけば準備していただける。

店先の暖簾をくぐり四伍坪ほどの土間から奥に声を掛けると、奥から三角巾を頭に被る女性が出てきて応対してくれた。
左の壁際にある長いすを勧められ、間もなくお盆に乗った麩饅頭と茶が運ばれてきた。
なるほど、この長椅子に座って食すのか。
麩嘉の麩饅頭連れを伴っていたら、二人で満席だな…..と想像してみた。
それにしても楊枝も無く素手でいただくとは予想していなかった。
気取りが無くそれはそれでいいのだが、濡れた笹葉を指先でほどき、饅頭を摘まんでいただいた後の指先を想像していただきたい。

IMG_3535長椅子に腰かけると正面は和室が設えてあるが、床(とこ)が造りこまれてあるので今で言う来客商談室とでも言うところだろうか。
畳敷きの一部に板が被せてあるのは囲炉裏でもあるのか?それにしては自在鉤が見当たらない…….など饅頭を口にする前にあれこれと想像してしまう。

一口でいける饅頭を口に放り込む。
“つるっ”とした舌ざわりに一噛みすると“もちっ”とした食感と、後から来る品の良い甘さの餡で、三つ四つまとめて頂きたいほど後を引く。

小売りをしていないので訪れる客は皆無。
店先の土間で店員もおらず、静にいただく甘味も京都だと思うとお洒落っぽい。
コロナ肺炎が治まったら今度は連れを伴って伺うことにしよう。
食を終えたことを伝え注文していた20個の麩饅頭を受け取り店を後にした。

新幹線ホームは人もまばらで、いつも見る様子とは全く異なっていた。
出張や観光自粛の効果は思った以上にあったようだ。
新幹線の一車両には20人程しか乗車しておらずこんなことがあるのかとビックリした。
思い切って京都を訪れたのはタイミング的に良かった様だ。







「こそっと京都に」の時期は7月第一週でした。
COVID-19肺炎感染拡大兆しの中でのTripに、いつになく所作には慎重を期した移動でしたが、幸いにして三密となる場面は市内電車の移動時だけだったと思います。
ひと月経ち、京都府の感染状況は千葉、神奈川、愛知とほぼほぼの感染拡大状況です。
しばらくは媒介者にならぬよう自粛して、次の計画をどうするかと楽しむことといたします。


 半世紀ぶりに西芳寺を訪れる。
市営東西線太泰天神川駅から京都バス83系に乗り、渡月橋を経由して30分程で苔寺・す人通りが途絶えた渡月橋ず虫寺折返し停留所に到着した。
途中バスの車窓から見た渡月橋の様子は、COVID-19肺炎の影響で、人通りが消え、シャッターを下ろす店舗が目につき、半年前までは想像すらできなかった様子に目を疑った。
早期の終息と営業の回復を祈るばかりである。

IMG_3423西方寺総門バスを降り案内板を頼りに歩きだす。
さすがに当時の記憶は無いに等しく、初めての地を歩くようなものだ。
歩き始めて間もなく右手に総門を観る事ができるが、普段は閉門されており、境内に入るには更に100m余ほど先にある衆妙門より境内に入る。
道は緩やかに上り、緑しげる寺院との境を西芳寺川が流れている。

IMG_3426西方寺川  IMG_3425衆妙門
西方寺の寺歴縁起(由来や言い伝え)は飛鳥時代聖徳太子に端を発しているようだ。
聞き覚えのある歴史上人物の名も挙がるが、飛鳥時代、奈良時代、平安時代前期までの寺歴に於いては大半が縁起におけるもので、様々な説は伝えられるものの、確固たる証拠が見つかっておらず、あまり詳しいことはわかってないらしい。
南北朝時代に浄土宗から臨済宗に改宗され、この時期に臨済宗の僧 夢窓疎石(むそう そせき)により現在の基となる庭園が作庭されている。

夢窓疎石についてサクッと触れておく。
「僧は後醍醐天皇にその才覚を見出され、幅広い層からの支持を受け、室町幕府初代将軍の足利尊氏・直義兄弟からも崇敬されていたと言われている。
八歳で天台宗平塩山寺に入り七十七歳で没するまで、禅宗僧の上位格を追い求めることをせず、鎌倉、北山、甲斐、遠江、美濃、土佐、三浦、上総等々と移り修行を続け、夢窓派として門下は13,000余の支持を数えるという。
禅僧としての業績の他、禅庭・枯山水の完成者とし最高の作庭家の一人にあげられ、彼の作とされる天龍寺庭園と西芳寺庭園は京都文化財の一部として世界遺産に登録されている。
夢窓疎石の禅庭は、連歌・歌論や世阿弥の猿楽(能楽)とともに、わび・さび・幽玄(奥深・神秘的深み)と表現される日本の伝統美の礎を築き、今日なお影響をあたえ続けている人物と言える」


衆妙門前で開門を待つ拝観者の数は想像以上に少ない。
流石にCOVID-19肺炎感染を懸念して皆さん自粛しているのだろうか。

IMG_3430総門に続く石敷きの参道IMG_3429衆妙門正面石畳参道衆妙門の脇戸より境内に入ると、真っすぐ奥の庫裡に向かう石畳の参道と、右手に苔の中を抜け総門に続く石敷の参道(こちらは入場禁止)が目に入る。
石畳の参道を進み、本堂(西来堂)を左に観て玄関(宗務所)より屋内に入ると、写経場となる本堂へと案内された。

IMG_3433本堂(西来堂)ご存知とは思うが、西芳寺は日一回の拝観と拝観者の数に制限を設けている。
希望者には事前に“往復はがき”のみで申込受付を行い、当日は拝観の条件として、まず写経を行い、その後境内庭園の散策を行うことになっている(※冬季は庭園の散策は行っていない)
また開門から閉門時間までが凡そ二時間で、拝観者は閉門までには散策を終え寺院より退場する。
以前は多くの寺院同様に誰でも参観できる観光寺院だったのだが、1977年7月を最後に今の拝観方法へと移行して来た。

本堂中央の宮殿には御本尊 阿弥陀三尊像が安置(寺歴では浄土宗から臨済宗へ改宗した経緯があり、寺歴を尊び、禅寺にあっても、釈迦如来を祀らず阿弥陀三尊像を残したらしい)されている。
外陣は御本尊正面から向拝にかけ間が空けられ、間の左右に経机が並びここで写経を行う。
正座、胡坐の姿勢が執れない方ように広縁にはテーブルと椅子も準備されていた。
延命十句観音経写経に用いるのは『般若心経』とばかり思っていたので、そこそこ時間はかかる予想をしていたのだが、経机にあったのは『延命十句観音経』(えんめいじっくかんのんぎょう)であった。
十句観音経はわずか42文字の最も短い経典として知られる偽経で、実に都合のいい経だ。
コロナ肺炎感染拡散防止か、それとも希望者が少なかったのか定かでは無いが、この日の拝観者は少なく、写経を終え庭園の散策に向かう人で本堂内は早々に空席が目立ち始めた。

庭園は趣が異なる上下二段二つの庭園があり、下段に浄土風の黄金池(おうごんち)と呼ばれる池泉を中心とする池泉回遊式庭園、上段は洪隠山(こういんざん)と呼ばれる山の斜面に三段組みの枯滝石組を配した枯山水庭園で構成されている。

IMG_3439観音堂IMG_3438庫裡宗務所を出て庫裡の前を抜け、結構な高さの土塀にある庭門をぬけると、庭園西側の南向きに建つ観音堂がある。
観音堂は西来堂(本堂)ができるまで本堂の役目を果たし、内部仏間に聖観音菩薩立像を祀ってあるようだが、板戸と正面の障子戸は閉ざされ拝覧はかなわなかった。

観音堂からは下段の池泉回遊式庭園が目の前に広がる。
訪れた日は天気も良く、周回する歩道を散策すると、樹木が作る陰影と、差し込む日で作られる苔のグラデーションが目を楽しませてくれた。

  IMG_3446(2) IMG_3460(8) IMG_3458(7)
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庭園内には少庵堂、湘南亭、潭北亭(たんほくてい)と三つの茶室がある。湘南亭は重要文化財に指定されており、千利休が一時利用したとの言い伝えと幕末期攘夷派から逃れるためIMG_3454湘南亭公家 岩倉具視が隠れ住んだ記録が残されている。

何かで拾い読みした記事に、庭園は作庭当初は苔など生えてなく、苔におおわれるようになったのは江戸時代の末期と“言われている”とあった。
別の記事には、池泉回遊式庭園は隣接する西芳寺川より低い湿地で、境内と庭園を仕切る土塀により外気の流入が遮られ苔の繁殖に適した環境が維持されているともあった。

室町時代には応仁の乱・文明の乱で荒らされ更に洪水の被害もあり、荒廃した時期を経て再興されるも、江戸時代寛永年間・元禄年間と再び洪水の被害を受け寺院の建造物はほぼ流出している。

戦火と度重なる洪水の被害に見舞われ辛うじて存続はしたようだが、伽藍の復興が叶ったのは明治時代に入ってからで、現在の伽藍のほとんどは、この明治時代の復興期に再建されているとある。
現在の本堂、書院、宗務所にあっては、昭和に入ってから建造されている。
IMG_3470指東庵(開山堂)IMG_3465向上関
池泉回遊式庭園の散策は北側に移ると向上関(こうじょうかん)を抜け石段・石垣の通宵路を通り枯山水式「洪隠山石組」に至る。
指東庵(開山堂)の東側にあるこの石組は夢窓疎石による作庭当初のものであり、日本最古の禅宗庭園といわれている。

浄土風の池泉中心とする池泉回遊式庭園を散策した後に、石組枯山水庭園となると、はてさてどの様な様相を見せてくれるのか。

IMG_3472洪隠山石組多くの寺院での枯山水庭園を見慣れてしまうと、様子が異なることに戸惑いを感じた方もあるかと思う。
ちょっと雨でも降ろうものなら、そこには小渓が現れるのではと思える自然の中に存在する涸れ沢そのものであった。
作庭当初には苔は無かった様だが、今の様相を夢窓疎石は想像できていたであろうか。

蛇足になるが、「洪隠山石組」を観て思い浮かんだ景観がある。
山梨県の笹子トンネル入り口近くに「日川」という小渓があり、上流の天目山を抜ける峠道に沿ってその川は流れている。
以前は暇をみては「日川」の清流でイワナと遊んでいた。
清流の中を上流に向かうと、竿を置き岩に腰を下ろし、しばしその景観に見入ってしまう美しい流れがある。
自然の石が幾重にも連なり、一つ一つの石には苔が生し、その間を清流が流れている。
夢窓疎石は幼少期山梨に住み仏門に入ったとあり、後に恵林寺(甲府市)の創建をしている。
もしかすると同じような景観を目にしていたのかも?と妄想をしてしまった(笑)
因みに天目山の峠付近には臨済宗建長寺派の古寺がある。

西方寺を訪れ、楽しみにしていたが叶わなかった事が一つ。
冒頭に“当時の記憶は無いに等しく”としたが、苔の緑深い、少々くすんだ明るさの神秘的で神々しい空間の中を、真っすぐに敷石の上を歩いた記憶だけ鮮明に残っている。
庭園を散策し、半世紀ぶりにその光景を観る事が出来ると期待していたが目にすることはなかった。
記憶違いであったのか寺院が違うかとも思ったが、どうやら総門から中門にかけての景観がそれに近いと知った。
訪れた当時は、総門から中門を抜け、庫裡の前を通り庭園を散策したようだ。
脳裏に強く残る様子なので、私的にはこの寺院の一番の見所では無いかと勝手に決めている(笑)
総門から入境できるタイミングがあれば今一度ここを訪れようと西芳寺を後にした。