本日 68 人 - 昨日 12 人 - 累計 58519 人
 昨年秋に“初代旅人”長塚京三が25年務めた「そうだ京都、行こう」のCMを卒業した。
新ナレーターには俳優 榎本明の長男、俳優 柄本佑が後を引き継いだ。
長いあいだ長塚京三のナレーションに耳が慣れたせいか、柄本佑のナレーションには何か物足らなさを感じてしまう。
そんなことを言ってしまうと彼には申し訳ないが、二代目の難しさと思っていただきたい。

長塚京三の卒業となった秋のキャンペーンで「酬恩庵」(一休寺)が紹介された。
偶然その年初夏に一休寺を訪れており、JRの先取と、混雑前に訪れてゆっくり拝観出来たことに満足していた。

先頃「そうだ京都、行こう」のCM、2019年 初夏「苔と新緑編」を観て「あれっ」と思った。
苔と楓の緑が溢れる常寂光寺、祇王寺の苔むす中ひっそりと佇む「草庵」、先日京を訪れ巡ってきた景色がそのまま放映されていた。

実を言うと常寂光寺を訪れた際、鐘楼の片隅に撮影機材が山となって置かれていたので、警備の方に伺うと、撮影隊が訪れているが何の撮影か聞いてはいないとの返答であった。
冗談のつもりで「そうだ京都、行こう」のCM撮りじゃないんですか等と談笑したのだが、まさか口から出まかせが本当だったとはビックリ。
またしてもJRの先取で、混雑前の良いタイミングで訪れる事ができ日禎上人に感謝。

毎度雑な説明だが「常寂光寺」の様子に興味ある吾人は「連休直前の気まぐれ」 9-2 (常寂光寺)をご覧いただきたい。


 大徳寺 勅使門南門からの参道を奥に進むと、大徳寺勅使門の前に出る。
勅使門は御所の門を賜り移築したもののようだ。

禅宗寺院といえば鎌倉の建長寺が東国に居する自分的には先に来るが、大徳寺創建の宗峰 妙超(しゅうほうみょうちょう)も京より鎌倉入りし、後に京に戻り大徳寺の礎を創建している。
後醍醐天皇の庇護を受け、京都五山の上位にまで上がるも、足利政権下では五山より外され冷や飯を食う扱いを受けている。
大徳寺の盛栄期はこれ以降に始まっている。
大名・文化人・商人・貴族らの支持を受け、特に一休宗純を輩出後は「茶」の世界との繋がりも強くなり、村田珠光、武野紹鴎、千利休、小堀遠州など多くに茶人と関係が深くなっている。
安土桃山時代は歴史的には短い時期を指すが、侍の時代から表舞台で文化人や商人が活躍して多くを残した時代であり、その集大成が集まる大徳寺と塔頭群は見どころも多い。

勅使門から本坊の間にはあたかも展示されるかのごとく山門、仏殿、法堂が同じ様な間隔で直線上に並んでいる。
大徳寺 山門  大徳寺 法堂  大徳寺 仏殿
朱の山門は千利休が建造に関わっており、後に利休失脚の一因になったとも伝わっている。

静かな参道を進み総見院の門前まで来ると総見院は拝観が出来ない。
何と!土日祝祭日に限りの特別拝観になっていた。
特別拝観を行っていることは確認していたのだが、詳細まで目を通していなかった!
物凄く残念な気分になったのだが諦めて先の高桐院に向かった。

IMG_2945 IMG_2946参道より引込んで建つ高桐院の表門の前に立つと、ここも拝観出来ない。
修復が完了しているはずが、見通したたぬ拝観開始時期未定に成っている。
総見院に続き大ショック!!
自宅を出る前に、細かく確認をしなかった自分を反省しつつ参道を北大路通りまで出る。
バスに乗り京都駅に向かうも今一つ満足感に欠け、気を取り直し出町ふたばに寄る事にした。
葵橋西詰で降り横断歩道を渡ると、いつも見る店先に並んでいる列が無い。
定休日は昨日と不安な気持ちで出町ふたばの店先まで来ると、降りたシャッターに貼られた張り紙には本日は臨時休業と書かれていた。
「それはないだろ~!」
落ち込んだ!

「気まぐれ」の失敗が立て続けに起きた。
「しょうがない」と諦めるしか無いが、次回はもう少し下調べをせねばと反省。
いい年をしてと帰宅後は家人に散々いわれてしまった。( ;∀;)
家人を供わなかった事は唯一救いだった。

 北大路通りより南門望む北大路通りに面した塀伝いに歩くと、短い石段を上がり奥まった所に大徳寺の南門がある。
南門からは、松並木のあいだを石畳の参道が真っすぐに延びている様子がうかがえる。
門をくぐると、静寂な境内の空間が気分を和ませてくれる。
大徳寺南門まだ昼時が終わった時刻だというのに、参道に人通りは無かった。
先に進むと、左手に臨済宗大徳寺派寺院の黄梅院がある。
通常は非公開に成っているが、春と秋の年二回ほど特別公開を行っているようだ。

黄梅院山門黄梅院の創建は織田信長が、父織田信秀を追悼するために作らせた「黄梅庵」という小さな庵が始まりとなる。
織田信長が急逝した際、豊臣秀吉はこの黄梅庵を信長の墓所としたが、後に同じ大徳寺塔頭の総見院に移した。
「手狭」と移した理由は大方説明されるものが多いが、深読みした話には秀吉の「思惑」があったとされるものも目にする。
今も信長の墓所があるのではと秘密めいた話もある様だが定かではない。
その後、黄梅庵は毛利元就の三男、小早川隆景により庇護され「黄梅院」と改め今日に至っている。

表門をくぐると、前庭は新緑と苔のみどりで埋め尽くされ目に優しく映る。
前庭の正面に見える庫裡は小早川隆景の寄進により建てられ、現存する禅宗寺院の庫裡では国内最古になるようだ。
庫裡より更に左奥には唐門が見える。
表門の左手には加藤清正より寄進されたという鐘楼がひっそりと建っている。
黄梅院 庫裏  黄梅院 唐門  黄梅院鐘楼

受付を済まし本堂に向かうと、外露地には真の延段がつづき格調の高さをうかがわせている。

庭園に面した回廊を進むと書院の南庭「直中庭(じきちゅうてい)」が右手に見えてくるが、まだ庭園の全景は見えない。
回廊を右に折れ書院に入ると、ようやく南庭「直中庭」の全景が目に入る。
書院前に広がる苔の美しい直中庭は、秀吉の希望により、千利休が66歳の時(天正16年(1588年頃)に作庭されたと伝わり、一面苔におおわれた庭園には秀吉が希望した瓢箪(ひょうたん)をかたどった池があり、加藤清正が持ち帰った朝鮮灯籠が据えられ〝苔の枯山水〟とも称されている。

書院にある茶室「自休軒(じきゅうけん)」は伏見城の遺構を移したものとされ、書院に組み込まれた四畳半の茶室「昨夢軒(さくむけん)」は千利休の師である武野紹鷗(たけのじょうおう)好みとして知られる。
書院の裏手に周り茶室を見ると、「組み込まれた」の表現が理解できると思う。

書院から本堂へ進むと本堂前に広がる枯山水庭園が目に入る。
本堂の前庭は「破頭庭(はとうてい)」と呼ばれ、手前半分に白川砂を敷きつめ、奥半分は桂石で区切って苔を配したシンプルな庭に成っている。
作庭は天正年間(1573~91年)と言われ、苔の上には2体の石があり、観音菩薩と勢至菩薩を表すと言われている。
前庭の左に見える華頭窓のむこうは、表門を入った際、庫裡左奥に見えた唐門になる。

小早川隆景の援助によって建立された本堂は禅宗寺院にみる方丈建築で、中央の仏の間には小ぶりの釈迦如来を中心に、両脇には春林と玉仲の座像が祀られている。
※(説明を受けた際に春林(創建時住職)と玉仲(後を継いだ住職)の像と聞いた気がするが聞き間違いだったらごめんなさい)
室中の拭板敷は丁寧な漆塗りで仕上げてあり、独特な光沢に気が付くだろう。
面白いのは、二体の座像の顔は鴨居の上に隠れて縁側からは見えないのだが、漆が塗られた拭板敷の床に映って見ることが出来ると説明を受けた。
老眼の自分には申し訳ないが確認できなかった。

室中の障壁画は、毛利家の御用絵師とし桃山時代を代表する絵師のひとり、雲谷等顔(うんこくとうがん)の手による水墨画の襖絵を観ることができる。
『竹林七賢図(ちくりんしちけんじん)』や『西湖図(せいこず)』など重要文化財の襖絵44面がまとめて見れるのも、等顔が毛利家の御用絵師ゆえのことだろう。

本堂から庫裡に向かうと左手に坪庭がり、庭の向こうには華頭窓を通して滝を模した立石がみえる。
方丈は水に浮かのごとく、ぐるりを枯山水庭園に囲まれ、北裏側にも庭園が造られている。
北裏側の枯山水の庭園は、「生々流転(せいせいるてん)」を表した「作仏庭(さぶつてい)」と呼ばれ、北東に枯山水の滝を表す立石を配し、南への流れが、小船の浮かぶ様にみたてた石のある坪庭を抜けて、破頭庭の大海へと注ぎ込む流れを表している。

冒頭に紹介した庫裡は、現存する禅宗寺院の庫裡では国内最古となり、重要文化財に指定されている。
小さい釜は当時の塔頭での生活を推測させる。
天井が高く吹き抜けていて、梁組みの組み合わせを見ることができる。
綺麗に梁や骨組みが煤で黒く成っているように見えるが、あまりにも綺麗なので説明員に聞くと、塗装を施しているようだ。(チョット残念)
庫裏は棟積工事を昭和の終盤に行っている。
改修時に手を入れても不思議ではない。

庫裏を見学中に僧侶が出入りする様子をみかけた。
拝観を終え院内を後にしようかと踵を返すと、「住職による御朱印を受け付けます」と案内があった。
先ほど見かけた僧侶は住職だったようだ。
住職から直に御朱印を頂けることなどなかなか無いので、折角の機会だから御朱印を頂くことにした。
黄梅院の御朱印は趣向が変わっていた。
住職は対面に座ると、御朱印を授ける「人」をみて、その様子より文言を書いていただける。
意外であり、ありがたみを感じる。

聞くところによると、今回の拝観出来た意外に6つの茶室と小庭もある様だ。
次回訪れるときはそちらも観てみたいものだ。
訪れる楽しみの寺院がまた一つ増えた。

IMG_2910 バスに乗ると乗車口の正面席が空いていて幸運にも座れた。
後部席は満席。よく見ると外国人で埋まっていた。
優先席に座っているのも外国人だった。
これみんな金閣寺に行くのかよ!
途中の停留所からもイラクだかイランだかそっち系の外国人がドっと乗り込んできて、車中は聞いても分からない外国語が飛び交う。
IMG_2907IMG_2908平日の午前中でこの状態では、京都市民が文句を言いたいのはよく分かる。

金閣寺道のバス停で降りると辺りは外国人で一杯だった。
バスを降りる外国人、バスを待つ外国人、横断歩道を行き交う外国人。
ここは日本か?
外国人や修学旅行生などの混雑を覚悟で訪れた自分の考えが浅かった。
目の前の光景は「予想を超えた」×300だった。これでは近所の住民は堪ったもんじゃない。
金閣寺に向かう流れは帯のように総門を抜け、受付前は人混みで埋まっている。
唐門をゆっくり観るスペースもなく、誘導されるままに通路を進むと、行き成り鏡湖池の向こうに金閣を見る。
IMG_2950金閣をバックに記念写真を撮る人で方丈の前あたりまで人だかりですごい状態に成っていた。

境内の見どころには人が停滞し、その後ろを“ところてん”でも突く様に人が移動している。
方丈の拝観は行っておらず、金閣は観たので「しょうがない」と“ところてん”が突き出されるまま境内を出た。

バスの問題は市の対策とは別に一部企業が動き始めたが、寺院側も既に一部の寺院が実施する入場規制などの処置を、広くアナウンスした上で導入することも必要あるなと感じた。

知恩院古門と 黒門へ伸びる華頂道 黒門から延びる華頂道を行くと知恩院の古門に行き当たる。
正確に言うとこの古門から法然上人の御廟に至るまでは知恩院の広大な境内となっており、三門、黒門から東大路通りに至る地所は塔頭と学校法人が運営する浄土宗系の学び舎が建っている。
南門、新門、古門と三門、黒門で囲まれる地所が知恩院の境内と考えると、とてつもない広さである。
法然上人が唱えた思想は当時の旧仏教界から糾弾され、それによって法然は流罪になり、後に京へ戻るも翌年に亡くなる。
が…浄土宗徒であった徳川家康により寺域が拡大され造営は2代将軍、秀忠、3代将軍、家光と三代にわたり力を注がれた。
徳川家が浄土宗徒であったことでもあるが、目障りな朝廷への威嚇、監視、牽制に二条城とともに京都における徳川幕府の二大拠点として、政治的利用が背景にあったとも云われている。
知恩院のシンボルマークが「三つ葉葵」であることを見れば、徳川家との繋がりは強大なものであったと容易に理解できる。

古門前白川IMG_2893古門前を白川が流れここから下流に行くと、観光で人気の祇園白川の花街となり、その先で鴨川に流れ込んでいる。
ドラマのロケで使われた川沿いを上流に向かい歩くと、明智光秀の首塚がすぐ近くに在ることが分かり寄り道することにした。

IMG_2896IMG_2895首塚は狭い路地の中にあった。
逆賊光秀の遺骸は菩提寺に埋葬されたなどと諸説様々とあるが、どれも信ぴょう性に欠け、埋葬されたか定かにはなっていない。
天下に名を知らしめた大名光秀の最後を思うと、「哀れ」の一言が浮かんだ。

首塚のある路地を出ると白川に掛る一本橋がある。
首塚といわれる東梅宮があることから梅宮橋と呼ばれているようだ。
IMG_2890   IMG_2899   IMG_2900
白川と東大路通りに至る間の街並みは京都の特徴的家屋が並び、かつては京都の台所と言われる錦市場になぞらえて、東の錦と呼ばれた古川町商店街が東西に延びている。

街並みを散策して驚いた。民家の並ぶ裏路地にも外国人の姿を頻繁にみる。
IMG_2903  IMG_2898  IMG_2901
どうみても観光客なのだが何故か生活感を感じる。
正直ここに住む住民はどの様に思い日々生活しているのだろうか?

IMG_2904散策を行いながら知恩院前バス停まで戻った。
バス停は白川を渡る橋の上にあり、橋の上で釣りをする近所の人が居た。
街中に流れる白川で魚など釣れるものかと、冷やかしで声を掛けると釣れると言う。
粗末な竹竿に道糸とハリスを結び、小さな玉ウキを使った簡単な仕掛けに何と「たなご」が釣れた。チョットびっくり!!
次は何処へ向かおうかと時刻表を見ると、金閣寺に乗り継ぎなしで行けるバスが間もなく来る事を発見。バスが来るまで釣りを見て時間をつぶす。

知恩院南門 祇園でバスを降り八坂神社西楼門から境内に入る。
左に回り込み本堂裏を抜け円山公園のひょうたん池を見て左に曲がると知恩院南門に行き着く。
門を抜けると右手に知恩院の三門が覆いかぶさるように現れる。
南禅寺の三門も巨大だが知恩院の三門も負けてはいない。
知恩院三門どちらが大きいかは別にして、印象をたとえで表現すると、知恩院は「慶応ボーイ」、南禅寺は「早稲田のばんから」で判るだろうか。

8時前の三門前に一般拝観者の姿はなかった。 だが、少々様子が違っていた。
三門には飾り付けが成されてあり、黒いスーツ姿の寺院職員らしき男女が忙しく何かの準備を行っている様子。
近寄って伺うと「ギョキダイエ」の準備と聞こえた。
「ギョキダイエ」???
スマホで検索してみた。

ぎょきだいえ(御忌大会)とは
法然上人がお亡くなりになられた日を期して行われる忌日法要。知恩院で一番大きなかつ重要な法要。
当初は1月に勤められていたが、明治10年から4月に勤められるようになり、4月18日午後から25日午前中までの8日間、日中・逮夜の各法要が勤められる。
・・・・・・・とあった。
男坂1知恩院の行事を見ると、2019年4月18日(木) ~ 25日(木)御忌大会(ぎょきだいえ)とあり、今日は 叙任式(「僧階」等の「進叙 叙任式」)に成っている。

職員らしき方に境内に入れるか聞くと、一部を除き普段通りとの事だったので三門を通り男坂の石段に向かう。

男坂3男坂の石段は下から見た感じはちょっと傾斜があるかなっ・・・程度だが、上り始めて中段辺りで振り向き三門を望むと、これが結構な傾斜であることがわかる。
日本放送協会の番組「ブラタモリ」で、八坂神社から慈照寺までのラインで断層による高低差がある事を放送していた記憶があるが、知恩寺の三門から阿弥陀堂までの高低も活断層によるものだろうか。

唐門予想以上だった石段を登りきると平らな境内になる。
境内は南北にはしる塀が設けられ、四脚門で東に伽藍、西に方丈と仕切られている。
御影堂の北側にも大方丈につながる唐門があるが、普段は閉門されおり通ることは出来ない。

石段を背に最初に目に入るのは境内の真ん中に法然を祀る御影堂(本堂)。
石段を登り切った直ぐ左には多宝塔とその奥に本尊阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂があり、更にその奥に方丈へ向かう四脚門がある。
御影堂を左に観て奥に進むと正面には一切経が収められる経蔵が建ち、経蔵の後方には小さな池を渡り納骨堂が設けられている。
御影堂    霊塔(多宝塔)    阿弥陀堂
経蔵納骨堂納骨堂まで進むと後方の斜面より、低く響く鐘の小さい音と、小声で経を唱える数人の声がうっすらと聞こえた。
阿弥陀如来と四天王が祀られる宝佛殿(新しい納骨堂)の脇から、鐘の音のする斜面中腹に延びる急な石段を上ると、正面に日本三大梵鐘の一つにも数えられ、重要文化財の大鐘楼が雑木に囲まれた空間の中に「ドンッ」と建っていた。
重要文化財に指定されるにしては無防備で存外な気がした。
大鐘楼至坂   大鐘楼2   大鐘楼3
来た石段を戻り、御影堂の裏手北側斜面に向かう。
参道から御廟へ続く智慧の道3参道から御廟へ続く智慧の道境内の一番高いところに法然上人の御廟が建っている。
御廟に向かう石段の登り口には法然上人の立像が置かれ、真っすぐ上りの石段が続く。

御廟入口勢至堂やや小ぶりな四脚門のある山寺が御廟の入口に成る。
門を抜け直ぐ左には鐘楼があり、真正面には知恩院で現存する最も古く、建立当時は本堂であり、法然上人が臨終を迎えた勢至堂が建つ。
小さな空間の山寺は知恩院の原点だった。

御廟2御廟(法然上人ご遺骨ご奉安)門右手には境内から更に一段高く、厳かな雰囲気の中に拝殿があり、その奥に法然上人を祀る御廟が建てられている。

御影堂まで戻ると漸く境内を訪れる人が増え始めていた・・・が、一般拝観者の数より僧侶の数が多くを占めていた。
僧侶は皆、阿弥陀堂まえで合掌を行い、方丈へ向かう四脚門を抜け武士門へ入っていった。

黒門御忌大会が行われる中、雰囲気的に方丈の拝観はあきらめた。
気まぐれとは言え、行事はしっかり確認して次回はゆっくりと方丈と庭園を拝観しよう。
女坂を下り、黒門を観て知恩院を後にすることにした。

 京都駅でバスを降り、晩飯をどう過ごすかと時計を見ると晩飯にはまだ大分早い。
普段は異常に混む駅前D1・D2のバス停が気持ち悪いほど空いていた。
系統86、100、106,110、206は京都を訪れる訪日外国人人気ベスト3に入る清水寺や祇園へ向かうには都合のよい路線だ。
彼らは決まって清水寺から高台寺、祇園へと散策する。

「時間つぶしに三十三間堂でも拝観して来るか」
普段なら絶対に使わない路線に気まぐれで乗ってみた。

バス停が空いていたといえ、バスの中は座れるほど空いてはいない。
京都市内を走るバスの何処でも見る光景、高齢者と外国人ばかりが目立つバスの中の様子だ。
国立博物館前でバスを降りたが、続いて降りる外国人は居なかった。

IMG_2822バスを降りるとレンガ造りの博物館旧館が目に入る。
興味を引くが横断歩道を渡り三十三間堂に向かう。
修学旅行の生徒や外国人は居るものの混みあってはいなかった。

三十三間堂と言えば、半世紀前に学校の授業で「平清盛」「通し矢」の話を聞き、「千体の千手観世音」が置かれるお堂程度の記憶しか無かった。
実際に目にした本堂の大きさは、写真で見るそれよりはるかに大きく思わず感嘆した。
本堂に入ると、本尊 千手観音菩薩を挟み、両脇に五百体ずつ並ぶ等身大の千手観世音立像の迫力に圧倒された。
千手観世音   風神   雷神
今の世の中便利になり、本やnetで検索すれば、それらに載る写真や説明文で知識として十分得られるが、その場の本物の迫力や臨場感は中々伝わってこない。
気まぐれで拝観に訪れたが一見の価値は十分にあった。



※使用した本堂内像の画はWikipedia等よりお借りいたしております。