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 警察庁が12月19日に発表した道交法改正案が、来年の通常国会に提出される。
75歳以上が第1当事者となる重過失交通死亡事故が2018年、前年比42件増の460件発生しており、急増する高齢者ドライバーの深刻な事故情勢や、将来の高齢運転者の増加に対応するため対策強化を打ち出したものだ。

法案の骨子は、高齢者に対する対策を新たに創設することにある。
具体的には、
①「運転技能検査」を創設し免許更新時に試験を義務付ける。
対象とするのは、一定の違反歴がある高齢者に対し、免許更新時にコース上で実際に運転する状況を判定し、合格しなければ免許更新できないようにする。

②衝突被害軽減ブレーキなどを備える安全運転サポート車(サポカー)が条件の限定免許を新たに導入。

実施にあっては、法である以上しっかりしたケーススタディを行ったうえで、権利、不公平感、人権etcと詰める必要は大いにあると感ずるも、この法案改正と実施については賛同するものである。
2019年06月09日にupした「トレンドに成った高齢者」で以下の内容を呟いた。
1、逼迫した高齢者社会での高齢者ドライバーの対策
2、運転免許の交付と全免許所持者対象に再交付の手順についての対策
3、これら対策に伴う権限と費用
特に1点目と2点目は同時進行を行うべきと考えたい。…………と

詰めるべき問題点はあるものの、緊急かつ早期施策として項1は対策としてうたれた。
項2はどうなるのか?
数字の上で語ると、高齢者に該当する免許証所持人口内の重大事故発生件数は比率で表せば“微々たる数”になる。
アンケート結果において老若大半の方は「運転には自信がある」と答えているが、こんなところで自信など持たれても困る。
いつも戦々恐々として運転して頂いたほうが周りは安心できる。
風潮もしかり、マスコミの取り扱いにいたっては、どうも「特定属性の人に対して差別的な扱い」でアナウンスや表現がされているので憤慨をおぼえる。
ここで言う「特定属性の人」とは「老人」のくくりを指す。
やるべきことはやればよいので、私は項2も対象にして項1項2を同時同内容で実施すればよいと強く確信している。
若かろうが年寄りだろうが、プロドライバーだろうがペーパードライバーだろうが、全ては安全の為と考えればスッキリする。

さてそうなると項3の問題をどうするか?
今回警視庁が打ち出した法改正であっても、項3の問題は現状での対応はまず難しいと思う。
「検定を行う人員不足、運転技能検査を行う場所の確保」は実施の上で一番の問題となるはずである。
簡単に考えれば、教習所への外部委託という手を容易に思い付くところだが、現在教習所では既に高齢者の技能見極めは行っているようなのだが、権限が無いために無駄で絵にかいた餅状態に成っていると現場からは漏れ聞こえている。

年明け早々に開かれる国会では「桜を見る会」とか、「出張にかこつけて不倫デート、合わせて国会答弁偽証」とか、「車内で強制わいせつ」とか……………
重要法案がまじめに検討・答弁されるか否か実に情けない状況で開催される。

警視庁には、出す法案はしっかりと練り上げ、ダメ議員が検討する必要が無い程の十分な内容で国会提出に及んでいただきたいものだ。


IMG_3181 壇上伽藍には「鐘楼」が二つある。
一つは根本大塔正面に白塗りの「大塔の鐘・白鐘楼(通称:高野四郎)」。
もとは法会や集会を知らせるために撞かれ、現在は日に五回、定刻を告げるために撞かれる。
もう一つの鐘楼は、孔雀堂の向かいに“ひっそり”と建つ小振りの鐘楼。
IMG_3257高野山の公式サイトにこの鐘楼の案内はみられない。
歴史・文化的価値とか“語り継がれ”でもあれば案内はあるのだろうが、それらは全く無いのだろうか?
小振りではあるものの、金剛峯寺の境内に建ち、県の重要文化財に指定される袴腰付入母屋造りの鐘楼と造りは似ており、年代も十分感じるがnet検索でも出てこない。
ご存じの方でもいらしたら是非ご教授をお願いしたい。

IMG_3263IMG_3267金堂の西側に社がある。
申し訳程度にあるのではなく、伽藍の一角を占める存在としてそこにある。
鳥居をくぐるとその先には、御社(みやしろ)の拝殿として建立された「山王院」が建つ。
その山王院の裏手には主殿になる御社(みやしろ)が建立されている。

IMG_3262殿舎は三つあり
一の宮「丹生明神」(和歌山に深く根付いた氏族「紀氏」が出自と見られ、邪馬台国から和歌山へ流れてきた氏族であり、和歌山を中心に伊勢地方などに勢力を振るった氏族の丹生氏を指すもよう)
和歌山県かつらぎ郡に位置する「丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)」の主祭神。
大師・空海に山を授けた「山の神」になる。

二の宮「高野大明神」
大師が高野山へ入山した時に「黒色の白色の2頭の犬」を引き連れた狩猟師が現れ、大師を案内したといわれる神

※「高野大明神」と「丹生明神」は親子の関係であったと伝わり、高野山の「土地神」

三の宮(総社)「十二王子百二十伴神」
「高野大明神」「丹生明神」の眷属(親類・血族)と云わり、高野山における「八百万の神(土地神)」と云わる

高野山開山に至る話は、空海は天皇より許可を受けたが、「山の神」がいたので山の神の許可を得ないと高野山の開創は叶わない。
そこで山の神に開創の許しをお願いし、高野山の守護神に据え、祭祀することを誓う。
こうして空海は「山の神」から「高野山」を譲り受け、高野山開創に着手することができたと伝わる。
後に空海は、密教の伝承にあたり、日本の地の神々によってその教えが尊ばれ守られるとする思想を発し、その思想が大きな原動力となり、日本の神仏習合の起源とされたようだ。

今に至る高野山開創に際し語り継がれる話は、事実と神がかった創作とで脚色されわかりずらい。
何の神がどうのとかは、私的には大の苦手とする。
面白味はないが、「丹生明神」と例えられたのではないかと思われる氏族丹生氏から紐解けば、神がかる話もすっきりと整理できる。

IMG_3264社の鳥居から南に位置するのが「六角経蔵」です。
この「六角経蔵」は、鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥(きんでい)で浄写された一切経を納めるために建立されたものです。
経蔵は別名「荒川経」とも呼ばれ、美福門院がその持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)の庄を寄進された事に由来します。
ご存知のように経蔵はお釈迦様の教えが凝縮された経典(一切経)を収納するための蔵のようなものだが、経蔵の基壇付近に把手があり、時計廻りに押して回転させ、一周すると「一切経」を一通り読誦した功徳が得られるといわれている。
回す人の様子を見ていて、自分も興味本位で参加した。それも二回。
二度回すと何か問題ありますでしょうか?

“駆け足で京都”を二日回る予定で自宅を出た、気まぐれで高野山へと予定を変えたことで“疾走で京都高野山”になった。
IMG_3268還暦をとうに超えた年寄りには、かなりハードなスケジュールになってしまった。
レシートと一緒に昨晩利用した温泉のクーポン券があった。
山を下りたら寄って老体を癒してから帰ろう。
昼間の「大門」が帰路を見送ってくれた。

 金堂の裏手を行くと「御影堂」がある。
御影堂は空海の持仏堂として創建され、大師が入定されたのち、大師の十大弟子の1人である「真如親王(しんにょしんのう)」が描いたとされる大師の御影(画像)を奉安したことから、「御影堂」と呼ばれるようになった。
IMG_3255御影は堂内の内陣に安置されるが、普段一般参拝者は見ることが出来ない。
年に1度執り行われる「お逮夜(旧・正御影供)」の法会が終了した後のみ、外陣のみが一般参拝が可能となる。
現在観ることのできる堂宇は1846年(嘉永元年)に、紀伊徳川家「徳川 斉彊(とくがわ なりかつ)」が再建したものと伝えられる。

私は全く気が付かなかったのですが、御影堂の周囲には、万が一火災のときには屋根の上から瞬時に水を浴びせることができる防火設備として、ドレンチャー装置が地面に仕込まれているそうだ。
火事の際熱センサーが反応して、地面の中に埋め込まれたドレンチャーから一斉に水が噴射し、屋根の上まで届く水を、屋根の上から浴びせて鎮火する装置のようだ。
堂のぐるりを噴水で取り巻いた様子を想像していただきたい。
因みに、TVブラタモリで高野山を放映した際に、御影堂の防火設備としてデモンストレーションを紹介したそうだ。

御影堂の前に植わる木の周囲を、参拝者がしきりに何かを拾っている松の木がある。
「三鈷の松」と呼ばれる松の木だ。
聞くところによると、その松葉をお守りとして持っていると、弘法大師のご利益を授かることができ幸せになれると伝わるのだとか。
そう聞くと私も幾分かのご利益に授かろうとその集団の一員になることにした。
松の木を囲む集団はなかなか見つける事が出来ない様子。
しばらく松の木から距離をおき観察すると100%探し当てる方法をみつけた。
早速実行にうつすと、ものの2分程で20本を拾うことができた。
そこに行ってのご利益だとは思うが、家族親戚、親しい友人の分と欲張ってしまった。
訪れる方は同じ方法をお勧めする。間違いなく短時間で探し当てられる事を保証する(答えは同じ方法で探してください 笑)

「三鈷の松」については、またややこしい伝説が語られている。
要約すると、むかしむかし空海は中国・唐へ渡り修行、後密教法具の「三鈷杵」を授かる。
さて日本に帰国して伽藍を建立する場所に関して、仏の意志を仰ぐため法具・三鈷杵を東の空へ投げ放った。
帰国後、空海は自ら伽藍の地に「高野山」を選択して山に入ると、驚くことに、
空海が投げた法具の「三鈷杵」が松の枝に引っかかっていた。
仏の意志はここにありと高野山を開いた。
この松には三枚葉を付けた葉ができる、そして三鈷杵の”三”と三枚葉の”三”を由来あるものとし「三鈷の松」と呼ばれるようになったとさ。
空海の逸話伝説は全国至る所で漏れ伝わるが、室町時代後期以降になると弘法大師信仰が盛んになり、これら創作話が真しやかに伝わることになった。
ちなみに、「三鈷の松」の樹齢はどうみても若く、自生していたものではなく、後から植林したものであるのは誰の目にも判る松の木であった。

IMG_3256御影堂の隣には「准胝堂」と「孔雀堂」が並ぶ。
「准胝堂」の名前は、御本尊の「准胝観音」に由来している。
インドでは准胝観音を「准胝仏母」や「七倶胝仏母」と呼び、幾多の仏を生む「母(仏母)」と言う意味合を表し、日本では「安産祈願の観音様」として崇拝されることになった。
安置される「准胝観音」は千手観音ではないかと思いきや、類似した形状で顔が1つに対して18本もの腕を持ち、額に3つの目が付いている。
化仏(けぶつ)と称される小さな仏さんの乗った宝冠を頭に乗せている。
18本の腕には千手観音と同様に金剛杵(こんごうしょ)や蓮華、剣、錫杖(杖)を持ち、お腹で両手を合わせて施無畏印(せむいいん)を結んでいる。
特筆すべきは「准胝観音」は造立された事例がほとんどなく、歴史上に名前がほとんど出てこない稀有な観音様ということだ。
ここでもまた一説になるが、弘法大師自身が「得度の儀式(僧侶になるための儀式)」を行うために御本尊として手彫造立したとも伝わる。

「准胝堂」は光孝天皇の発願により、887年(仁和3年)頃「真然大徳(しんぜんだいとく)」により創建された。
現在の堂は焼失を繰り返した後、1883年(明治16年)に再建されたものとなる。
「真然大徳」は真言密教を極めた人物と称され、真言密教における最高位に就いた人物でありながら、関係する記録には不明な点が多く残り、歴史上にもあまり記録がないことから空海の弟子(一説には甥)であったと伝わる。

准胝堂では毎年7月1日に「准胝堂陀羅尼会(じゅんていどうだらにえ)」と呼ぶ法要が執り行われるが、およそ900年以上、現在に続く歴史ある法要とされている。


「准胝堂」の右隣(堂に向かって左隣)の「孔雀堂」はサラッと駆け足で行きます。
1199年(正治元年)、近畿地方は干ばつによる凶作で飢饉になり、天皇・後鳥羽法皇の命により真言宗寺院・「神泉苑(しんせんえん)」で「雨乞いの祈祷」を行う。
祈祷を執り行ったのは「東寺(教王護国寺)」僧侶「延杲(えんごう)」。
延杲が祈祷を行うと、あっ!という間に雨が降った。
法皇はこの功績を称え、ご褒美に孔雀堂建立を発し造営された。
1926年焼失し、現在の堂は1983年に再建されたものとなる。
「孔雀堂」の堂名は御本尊の孔雀明王に由来しており、ご本尊は高野山霊宝館で所蔵されている。
なんで孔雀なのか…….?
説明は結構長くなりそうなので、興味のある方はWikipedia等で検索してくださいm(_ _)m

さてと、興味津々の「西塔(さいとう)」へと緩い上りのスロープへ足をすすめる。
現在の西塔は過去5度の焼失を経て、1835年(天保5年/江戸時代)に再建されたもので、建立は886年(仁和2年/平安時代)、空海の甥であり、弟子でもある「真然(しんねん/真然大徳)」の手によって行われている。
IMG_3258西塔の建立は、本来は根本大塔と同時期に建造を予定されていたようで、伽藍においての大きな意味合いを成す存在だった。

そもそも、大師が創造した伽藍においては、この西塔が「根本大塔とセットになった多宝塔である」と位置付けることで2つの仏塔をもって壇上伽藍における「胎蔵界」と「金剛界」を表していると考えられている。

根本大塔内部の諸仏配置は「胎蔵界大日如来」を中心にそれをとりまく「四仏:金剛界四仏」
西塔内部の諸仏は「金剛界大日如来」を中心とした「四仏:胎蔵界四仏」がとりまく様に配置されている。

つまり、西塔と大塔はペアで「二重両界曼荼羅」の表現を伝える非常に重要な意味を持つ仏塔であるようだ。

西塔の「金剛界大日如来」は檜の一木造りで造立されており、樹齢約400年の檜が使われている。
造立は創建当初と見られ、高野山内に現存する仏像群の中でも最古のもののようだ。
本像は高野山霊宝館にて安置されていて、西塔内部の大日如来像は複製像になる。
西塔内部は37本の支柱があり、大日如来を中心とした金剛界曼荼羅37尊をあらわしていると云わる。

樹齢300年は優に超すとおもわれる樹林の中に、その佇まいから雰囲気を持つ堂は、壇上伽藍を成す重要な存在の塔だった。

 金剛峯寺の駐車場から金堂の中門前駐車場に移動する。

IMG_3251中門は闇にライトアップされた姿より、陽に照らされハッキリ見えることでシャープな様相である。
残念なことに、四体の「仁王像」は、闇に立つその姿の方がはるかに迫力があった。

中門の歴史をみると、実は天保14年(1843年)の火事で燃え尽きてしまい、以降、平成の時代まで再建されず中門跡地としてあったそうだ。
再建されたのは最近の2014年(平成26年)で、おおよそ171年ぶりに古の姿をもとの場所に蘇らした。
門の再建にあたっては大手ゼネコンが中心となり、跡地から発見された燃えカス等を分析することで材質・規模・着色料etcが判り、その結果より鎌倉時代の中門を復元して再建されたものの様だ。
仁王像と記した四体、実は”四天王像”だと言うことで、これも火事の際は被害を受けており、「増長天」と「広目天」は焼失により再造、「多聞天」と「持国天」は焼失を免れ修復され安置されている。
正面右側が「多聞天」その裏境内側は「増長天」、正面左側は「持国天」その裏境内側が「広目天」となる

IMG_3252中門をくぐると、正面の大きな建物が「金堂」だ。
高野山の開創時代から存在すると云われ、高野山では最古の歴史を持つとされ、現在も重要な行事はこの金堂にて執り行われている。
高野山の建物はどれもが幾度もの火災にみまわれた歴史がある。
現在の金堂も1934年(昭和9年)に再建されたものだとか。
昭和に入っての火災では、内部に安置された秘仏の7体が、完全に焼失している。
6体の脇侍(きょうじ)に関しては写真が残されてあり、写真と高野山内の調査記録を集録した「高野山金剛峯寺什器帳」の記述をもとに復原される形で再造されたが、肝心の御本尊は絶対秘仏だった為にほとんど尊容を拝んだ者がないことから、写真すら残されていなかったようだ。
少数の拝尊した者の記憶に「座像」の記憶は残るものの話を基に模索を試みるも、誰一人として尊容を思い出せなかったそうだ(意外といいかげんだった)。
な訳で現在は東寺と同じ「薬師如来像(やくしにょらいぞう)」が御本尊としてお祀りされている。

金堂の裏手には東から西へと直線状にお堂が並ぶ。
「根本大塔(こんぽんだいとう)」を中心に東は「愛染堂(あいぜんどう)」「大会堂(だいえどう)」「三昧堂(さんまいどう)」「東塔」「智泉廟(ちせんびょう)」。
西に「御影堂(みえどう)」「准胝堂(じゅんていどう)」「孔雀堂(くじゃくどう)」「西塔」

IMG_3253なかでも「根本大塔」は、空海の描く真言密教の世界 = 壇上伽藍そのものであり、「根本大塔」はその中心であり、高野山全体の修行場の中心であり、真言密教において根本となる場所に位置づけられ、その理念を表す意味合いの建造物になるという。
残念なことに幾度の焼失を免れず、現在の根本大塔は1937年(昭和12年)に再建されたもので、創建当初の木造ではなく鉄筋コンクリート造りである。
根本大塔の御本尊は「胎蔵界大日如来像」で、大塔内部の四方に「金剛界四仏」が祀られている。
「胎蔵界大日如来像」と「金剛界四仏」については、密教世界を私自身が理解出来ておらず、長くなるので割愛させていただく。
一つの感想として、塔内に空海の描く真言密教の世界を全て表現するために、大日如来像を中心としたあらゆる柱、四方八方内部壁面に仏が描かれており、空海独自の立体曼荼羅を作り上げたようだが、私的には強い彩色と目が回るほどの宇宙空間であって、心静かに落ち着くことは出来なかった事をおぼえる。(けして弘法大師の思想をけなし否定する訳ではないので関係各位にはご容赦を願いたい)

IMG_3254-1壇上伽藍の東側で是非観ておきたいのは「愛染堂」の向かいに建つ国宝の「不動堂」だ。
「不動堂」は高野山内の建築物として二例ある国宝のひとつで、創建は建久9年(1198年)鎌倉時代のものとされ、火事が多かった高野山において奇跡的に現存している古い建物だ。
本来は徳川家霊台の近く、一心院谷にあったものだが、明治41年(1908年)には解体修理が施され、その際、一心院谷から現在の場所に移築されている。
仏堂でありながら、当時の平安貴族の住宅様式をよく伝えていることから、国宝に指定されている。
堂内には木目漆塗に飾金具を打った須弥壇(しゅみだん)を配置し、運慶作の八大童子像と本尊不動明王が祀られているが、残念ながら特別拝観日ではない時期に訪れたため、拝観は出来なかった。

もう一例の国宝は北条正子が夫、源頼朝と、息子、源実朝の菩提を弔う為に貞応2年(1223年)に建立したとされる「多宝塔」だ。
高野山の建築物の中では最も古く、多宝塔としては滋賀県大津市にある東寺真言宗石山寺に次いで日本で2番目に古いものといわれる。
残念だが今回は時間の都合で「多宝塔」は訪れていない。

IMG_3254東側の堂を一通り観て(個々の堂には伝承話がありますがここでは割愛させていただく。興味のある方はWikipedia等検索願いたい)根本大塔の前を横切り西側へ向かう。