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13-13 高野山にむかう<終章> 壇上伽藍(謎の鐘楼と社と六角経蔵)

IMG_3181 壇上伽藍には「鐘楼」が二つある。
一つは根本大塔正面に白塗りの「大塔の鐘・白鐘楼(通称:高野四郎)」。
もとは法会や集会を知らせるために撞かれ、現在は日に五回、定刻を告げるために撞かれる。
もう一つの鐘楼は、孔雀堂の向かいに“ひっそり”と建つ小振りの鐘楼。
画像高野山の公式サイトにこの鐘楼の案内はみられない。
歴史・文化的価値とか“語り継がれ”でもあれば案内はあるのだろうが、それらは全く無いのだろうか?
小振りではあるものの、金剛峯寺の境内に建ち、県の重要文化財に指定される袴腰付入母屋造りの鐘楼と造りは似ており、年代も十分感じるがnet検索でも出てこない。
ご存じの方でもいらしたら是非ご教授をお願いしたい。

IMG_3263IMG_3267金堂の西側に社がある。
申し訳程度にあるのではなく、伽藍の一角を占める存在としてそこにある。
鳥居をくぐるとその先には、御社(みやしろ)の拝殿として建立された「山王院」が建つ。
その山王院の裏手には主殿になる御社(みやしろ)が建立されている。

IMG_3262殿舎は三つあり
一の宮「丹生明神」(和歌山に深く根付いた氏族「紀氏」が出自と見られ、邪馬台国から和歌山へ流れてきた氏族であり、和歌山を中心に伊勢地方などに勢力を振るった氏族の丹生氏を指すもよう)
和歌山県かつらぎ郡に位置する「丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)」の主祭神。
大師・空海に山を授けた「山の神」になる。

二の宮「高野大明神」
大師が高野山へ入山した時に「黒色の白色の2頭の犬」を引き連れた狩猟師が現れ、大師を案内したといわれる神

※「高野大明神」と「丹生明神」は親子の関係であったと伝わり、高野山の「土地神」

三の宮(総社)「十二王子百二十伴神」
「高野大明神」「丹生明神」の眷属(親類・血族)と云わり、高野山における「八百万の神(土地神)」と云わる

高野山開山に至る話は、空海は天皇より許可を受けたが、「山の神」がいたので山の神の許可を得ないと高野山の開創は叶わない。
そこで山の神に開創の許しをお願いし、高野山の守護神に据え、祭祀することを誓う。
こうして空海は「山の神」から「高野山」を譲り受け、高野山開創に着手することができたと伝わる。
後に空海は、密教の伝承にあたり、日本の地の神々によってその教えが尊ばれ守られるとする思想を発し、その思想が大きな原動力となり、日本の神仏習合の起源とされたようだ。

今に至る高野山開創に際し語り継がれる話は、事実と神がかった創作とで脚色されわかりずらい。
何の神がどうのとかは、私的には大の苦手とする。
面白味はないが、「丹生明神」と例えられたのではないかと思われる氏族丹生氏から紐解けば、神がかる話もすっきりと整理できる。

IMG_3264社の鳥居から南に位置するのが「六角経蔵」です。
この「六角経蔵」は、鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥(きんでい)で浄写された一切経を納めるために建立されたものです。
経蔵は別名「荒川経」とも呼ばれ、美福門院がその持費として紀州荒川(現在の那賀郡桃山町付近)の庄を寄進された事に由来します。
ご存知のように経蔵はお釈迦様の教えが凝縮された経典(一切経)を収納するための蔵のようなものだが、経蔵の基壇付近に把手があり、時計廻りに押して回転させ、一周すると「一切経」を一通り読誦した功徳が得られるといわれている。
回す人の様子を見ていて、自分も興味本位で参加した。それも二回。
二度回すと何か問題ありますでしょうか?

“駆け足で京都”を二日回る予定で自宅を出た、気まぐれで高野山へと予定を変えたことで“疾走で京都高野山”になった。
IMG_3268還暦をとうに超えた年寄りには、かなりハードなスケジュールになってしまった。
レシートと一緒に昨晩利用した温泉のクーポン券があった。
山を下りたら寄って老体を癒してから帰ろう。
昼間の「大門」が帰路を見送ってくれた。