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12-13 高野山にむかう 壇上伽藍(御影堂、三鈷の松、准胝堂、孔雀堂、西塔)

 金堂の裏手を行くと「御影堂」がある。
御影堂は空海の持仏堂として創建され、大師が入定されたのち、大師の十大弟子の1人である「真如親王(しんにょしんのう)」が描いたとされる大師の御影(画像)を奉安したことから、「御影堂」と呼ばれるようになった。
IMG_3255御影は堂内の内陣に安置されるが、普段一般参拝者は見ることが出来ない。
年に1度執り行われる「お逮夜(旧・正御影供)」の法会が終了した後のみ、外陣のみが一般参拝が可能となる。
現在観ることのできる堂宇は1846年(嘉永元年)に、紀伊徳川家「徳川 斉彊(とくがわ なりかつ)」が再建したものと伝えられる。

私は全く気が付かなかったのですが、御影堂の周囲には、万が一火災のときには屋根の上から瞬時に水を浴びせることができる防火設備として、ドレンチャー装置が地面に仕込まれているそうだ。
火事の際熱センサーが反応して、地面の中に埋め込まれたドレンチャーから一斉に水が噴射し、屋根の上まで届く水を、屋根の上から浴びせて鎮火する装置のようだ。
堂のぐるりを噴水で取り巻いた様子を想像していただきたい。
因みに、TVブラタモリで高野山を放映した際に、御影堂の防火設備としてデモンストレーションを紹介したそうだ。

御影堂の前に植わる木の周囲を、参拝者がしきりに何かを拾っている松の木がある。
「三鈷の松」と呼ばれる松の木だ。
聞くところによると、その松葉をお守りとして持っていると、弘法大師のご利益を授かることができ幸せになれると伝わるのだとか。
そう聞くと私も幾分かのご利益に授かろうとその集団の一員になることにした。
松の木を囲む集団はなかなか見つける事が出来ない様子。
しばらく松の木から距離をおき観察すると100%探し当てる方法をみつけた。
早速実行にうつすと、ものの2分程で20本を拾うことができた。
そこに行ってのご利益だとは思うが、家族親戚、親しい友人の分と欲張ってしまった。
訪れる方は同じ方法をお勧めする。間違いなく短時間で探し当てられる事を保証する(答えは同じ方法で探してください 笑)

「三鈷の松」については、またややこしい伝説が語られている。
要約すると、むかしむかし空海は中国・唐へ渡り修行、後密教法具の「三鈷杵」を授かる。
さて日本に帰国して伽藍を建立する場所に関して、仏の意志を仰ぐため法具・三鈷杵を東の空へ投げ放った。
帰国後、空海は自ら伽藍の地に「高野山」を選択して山に入ると、驚くことに、
空海が投げた法具の「三鈷杵」が松の枝に引っかかっていた。
仏の意志はここにありと高野山を開いた。
この松には三枚葉を付けた葉ができる、そして三鈷杵の”三”と三枚葉の”三”を由来あるものとし「三鈷の松」と呼ばれるようになったとさ。
空海の逸話伝説は全国至る所で漏れ伝わるが、室町時代後期以降になると弘法大師信仰が盛んになり、これら創作話が真しやかに伝わることになった。
ちなみに、「三鈷の松」の樹齢はどうみても若く、自生していたものではなく、後から植林したものであるのは誰の目にも判る松の木であった。

IMG_3256御影堂の隣には「准胝堂」と「孔雀堂」が並ぶ。
「准胝堂」の名前は、御本尊の「准胝観音」に由来している。
インドでは准胝観音を「准胝仏母」や「七倶胝仏母」と呼び、幾多の仏を生む「母(仏母)」と言う意味合を表し、日本では「安産祈願の観音様」として崇拝されることになった。
安置される「准胝観音」は千手観音ではないかと思いきや、類似した形状で顔が1つに対して18本もの腕を持ち、額に3つの目が付いている。
化仏(けぶつ)と称される小さな仏さんの乗った宝冠を頭に乗せている。
18本の腕には千手観音と同様に金剛杵(こんごうしょ)や蓮華、剣、錫杖(杖)を持ち、お腹で両手を合わせて施無畏印(せむいいん)を結んでいる。
特筆すべきは「准胝観音」は造立された事例がほとんどなく、歴史上に名前がほとんど出てこない稀有な観音様ということだ。
ここでもまた一説になるが、弘法大師自身が「得度の儀式(僧侶になるための儀式)」を行うために御本尊として手彫造立したとも伝わる。

「准胝堂」は光孝天皇の発願により、887年(仁和3年)頃「真然大徳(しんぜんだいとく)」により創建された。
現在の堂は焼失を繰り返した後、1883年(明治16年)に再建されたものとなる。
「真然大徳」は真言密教を極めた人物と称され、真言密教における最高位に就いた人物でありながら、関係する記録には不明な点が多く残り、歴史上にもあまり記録がないことから空海の弟子(一説には甥)であったと伝わる。

准胝堂では毎年7月1日に「准胝堂陀羅尼会(じゅんていどうだらにえ)」と呼ぶ法要が執り行われるが、およそ900年以上、現在に続く歴史ある法要とされている。


「准胝堂」の右隣(堂に向かって左隣)の「孔雀堂」はサラッと駆け足で行きます。
1199年(正治元年)、近畿地方は干ばつによる凶作で飢饉になり、天皇・後鳥羽法皇の命により真言宗寺院・「神泉苑(しんせんえん)」で「雨乞いの祈祷」を行う。
祈祷を執り行ったのは「東寺(教王護国寺)」僧侶「延杲(えんごう)」。
延杲が祈祷を行うと、あっ!という間に雨が降った。
法皇はこの功績を称え、ご褒美に孔雀堂建立を発し造営された。
1926年焼失し、現在の堂は1983年に再建されたものとなる。
「孔雀堂」の堂名は御本尊の孔雀明王に由来しており、ご本尊は高野山霊宝館で所蔵されている。
なんで孔雀なのか…….?
説明は結構長くなりそうなので、興味のある方はWikipedia等で検索してくださいm(_ _)m

さてと、興味津々の「西塔(さいとう)」へと緩い上りのスロープへ足をすすめる。
現在の西塔は過去5度の焼失を経て、1835年(天保5年/江戸時代)に再建されたもので、建立は886年(仁和2年/平安時代)、空海の甥であり、弟子でもある「真然(しんねん/真然大徳)」の手によって行われている。
IMG_3258西塔の建立は、本来は根本大塔と同時期に建造を予定されていたようで、伽藍においての大きな意味合いを成す存在だった。

そもそも、大師が創造した伽藍においては、この西塔が「根本大塔とセットになった多宝塔である」と位置付けることで2つの仏塔をもって壇上伽藍における「胎蔵界」と「金剛界」を表していると考えられている。

根本大塔内部の諸仏配置は「胎蔵界大日如来」を中心にそれをとりまく「四仏:金剛界四仏」
西塔内部の諸仏は「金剛界大日如来」を中心とした「四仏:胎蔵界四仏」がとりまく様に配置されている。

つまり、西塔と大塔はペアで「二重両界曼荼羅」の表現を伝える非常に重要な意味を持つ仏塔であるようだ。

西塔の「金剛界大日如来」は檜の一木造りで造立されており、樹齢約400年の檜が使われている。
造立は創建当初と見られ、高野山内に現存する仏像群の中でも最古のもののようだ。
本像は高野山霊宝館にて安置されていて、西塔内部の大日如来像は複製像になる。
西塔内部は37本の支柱があり、大日如来を中心とした金剛界曼荼羅37尊をあらわしていると云わる。

樹齢300年は優に超すとおもわれる樹林の中に、その佇まいから雰囲気を持つ堂は、壇上伽藍を成す重要な存在の塔だった。