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こそっと京都に「相国寺」

 承天閣美術館は10月末までコロナ休館と判っていたのに美術館に近い鞍馬口で地下鉄を降りてしまった。
歩き始めてから気が付き駅に戻るのも面倒なのでそのまま歩いて向かった。
美術館が休館ということで、相国寺には総門より境内に入り歩きたいと単純な理由だった。
烏丸通りを今出川交差点で左折、同志社大の前を通り総門を目指しひたすら歩いた。
端から今出川で降りていれば直ぐであったのに、初老には結構しんどい距離だった。

京を巡り相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である金閣寺(鹿苑寺)や銀閣寺(慈照寺)は訪れても、相国寺へ足を運ぶ者はそうは無いと思う。
ましてや訪日外国人だと、よほど通な方でない限り全く興味の無い或いは名も知らぬ寺と想像する。
小生も勉強不足で、相国寺僧侶が任期制で、鹿苑寺、慈照寺の運営をお勤めとして担当していたのは恥かしながら最近になって知った。

相国寺は室町幕府三代将軍の足利義満により創建されている。
義満が武士、公家、宗教統制と幕府への一元化を図り進めたことで、公家の権力は低下し庇護を受けていた天台宗・真言宗などは衰退する。
義満は鎌倉幕府時代より武士に支持される禅宗とその一派臨済宗を重用し、五山十刹の制を定め南禅寺を別格の筆頭に据え、以下天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の京都五山を定め保護するとともに幕府の権威を強めていった。
簡単に言えば権力闘争の道具に使ったわけで、五山の寺格に於いても、天皇が贔屓にする大徳寺を、足利義満が支持する寺を格上するが為に五山から外し格下の扱いにしている。
相国寺は義満の権威を誇示するための象徴だった存在と言える。

相国寺は幾度の失火、戦(応仁の乱、天文の乱)により大半を焼失し、豊臣や徳川により再興されているが、再度の焼失や戦により権威の象徴であった高さ109mの七重大塔、三門、仏殿は再建されず今日に至っている。
IMG_3389相国寺勅使門IMG_3388相国寺総門
総門から見る境内は、石敷きの参道が真っすぐと庫裡まで延びている。
左手には勅使門が観られるが、二つの門は意外にも質素な造りだ。

IMG_3390相国寺勅使門より続く放生池と天界橋IMG_3391門をくぐると左手には放生池(ほうじょうち)があり、中央には勅使門から続く天界橋と呼ばれる石橋が架かっている。
天界橋を背にすると、木々の間から法堂を見る事ができ、樹木の間に三門と仏殿の基石が残っているのがわかる。
基石の様子から想像すると、建物はさほど大きなものでは無かった様にうかがえる。

IMG_3397相国寺法堂IMG_3412法堂は豊臣秀頼により再建され、現存する法堂建築様式としては、日本最古のもののようだ。
両側には花頭窓(かとうまど)が施され「禅宗様」建築の雰囲気があり、小振りで迫力に欠ける法堂だが、それでいて清楚な落ち着きを漂わせていた。

この法堂は仏殿も兼ねているようで、須弥壇(しゅみだん)には本尊である釈迦如来像、脇侍(わきじ)には阿難尊者(あなんそんじゃ)、迦葉尊者(かしょうそんじゃ)の像が祀られている。
IMG_3402鏡天井には、安土桃山時代の絵師狩野光信筆の蟠龍図(ばんりゅうず:地面にうずくまってとぐろを巻き、まだ天に昇らない龍の図)が描かれている。
禅宗寺院の法堂によくみられる仏法を保護するという龍の図は、「水を司る神」ともいわれ僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から守ると信じられ、堂内の特定の場所で手を叩くと音が堂内に反響し、鳴き龍とも呼ばれている。    

境内は三門、仏殿、法堂、方丈が一直線上に並び、両脇を挟むように舗装された参道が通され、おもな寺院の建物はその参道に面して整然と並ぶように配置されている。

       IMG_3394相国寺経蔵   IMG_3409相国寺鎮守
       IMG_3407相国寺弁天社   IMG_3403相国寺洪音楼
境内を散策していると不思議とタクシーがよく通る。
どうやら塔頭長得院の脇を通りぬける裏道として使用されているようだ。
珍しくおおらかでお構いない寺院である。

境内の散策を終え、ふっと竹取物語の冒頭に出てくる「今は昔」の言葉が浮かんだ。
大寺院の風格、足利義満の築いた権威の象徴であった面影を、600余年を過ぎし今、歴史と重ね観る事で感じとることが出来ずものたりなさを感じた。

またここを訪れなければいけないなっ

承天閣美術館を訪れ、禅宗の規律、茶礼を基本とした茶道華道の発展の足跡、若冲の筆、方丈の前庭と裏庭、開山塔の「山水の庭」と「枯山水平庭」の異なる形態の庭が一緒になっているという珍しい庭。
これらを拝観した後に相国寺の総括かな。

久々物足りない“もやもや”とした気持ちで訪れた道を戻った。