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ぶらっと京都(初夏1)一休寺へ

 掛川辺りから黒い雲が厚く覆う空模様にかわり、浜名湖を通過する頃には大粒の雨が激しく降り始めた。

梅雨入り後の天気の隙を狙い、初夏の京都へ旬を求めて小旅行を決めたのはほんの数日前。
毎度の事、思い立つと矢継ぎ早に宿泊先と料理店の予約を済ませる。
紅葉時期に利用した同じ時間帯で京都に向かう新幹線に乗車した。
何故この時間帯かと言うと、空いていた記憶があったからなのだが、平日の利用にもかかわらず予想に反して結構な数の乗客が乗っていた。
短い時間ではあるが楽しみにしている京都への小旅行だ、静かに目的地での計画を確認しながら移動したいではないか。
団体の乗客もいるようで少々不安を感じながら席に着く。

案の定、掛川を過ぎた辺りから後方の13列周辺で10人程のグループの雑談の声が大きく成り始めた。
60代男女のグループだろうか出発直後から缶ビールを飲んでいたようである。
結構出来上がっている者も居た。
1列C席の70代であろう男性も携帯電話で大声の会話を始め、切っては掛けを名古屋に着くまで幾度となく繰り返した。
天気への不安も重なり不快な気分でのスタートとなる。

グレーな気分で京都駅のホームに降り立つ。
幸いにして駅周辺は雨もなく一先ず宿泊先のホテルに荷物を預け再び京都駅へ戻った。
早めの昼食を連絡路わきのベーカリーで摂り、今日の目的地までの経路を確認して早々に近鉄線改札に向う。

祇園祭にはまだ日もあるためか観光客は思っていた程多くは感じなかったが、それでも隣国漢字圏からの訪日客姿は往来する人波のなか目立つ存在だった。

近鉄線で移動する三~四十分の間、車両を打つ激しい雨にみまわれ、梅雨の隙をついての旅行計画にはやっぱり無理があったかなと少々後悔をし始めていた。
降車駅のホームに立つと雨の降った様子は無く、まだ運はあったようだ。
強い湿気の蒸し暑さで、体はすぐに汗ばんできた。

新田辺駅前改札を出て階段を降りると駅前に広いバスロータリーとタクシー乗り場があったのはちょっと意外である。
京都駅から三~四十分の距離、片田舎の小さな駅と勝手に想像していたのでここを利用する方達には失礼であった。



目的地までの経路検索は済ませてあるのだが、念のためバスの案内板と時刻表を確認する。
バスの時間に少々間があり、徒歩20分か乗り物を利用するかそこで迷ってしまった。
客待ちのタクシー運転手と目が合う。 期待させてしまったようだ。
タクシー運転手には申し訳ないが結局バスで移動することにした。
降車停留所は判っているが、乗車の際念のために乗務員に尋ねると「下車する停留所に着いたらお伝えします」と親切に応対してくれる。
幾つかの停留場を過ぎ、調べてあった停留場まで来たが乗務員からの案内が無い。
安心が不安に変わる。
次の停留所で乗務員から「ここで降りてください」と案内がありホッとして席を立つと、前の席に座る歳行った婦人が「あそこの角を曲がれば直ぐですよ」と指さし教えてくれた。
乗務員とのやり取りを聞いていたようだ。
旅をするとその土地で受ける親切は本当に有難い。

教えて頂いた角を曲がり、人通りも車の出入りも無い舗装された小道を三四分ほど歩く。
緩やかな左に曲がる道の先に、本日の拝観先である臨済宗大徳寺派の寺院「酬恩庵」の総門が静かに迎えてくれた。

迎えてくれた酬恩庵総門      酬恩庵総門の正面に立つ       
総門正面に立つと石敷の緩やかに上坂の参道は楓の枝葉で低く覆われ、どこまで続くのかと奥行きを錯覚させる。

酬恩庵のなだらかに上る参道      画像
坂を上り詰めて右に折れると、本堂へ真っすぐ続く参道は石垣と白壁の間に苔と楓が配された落ち着きの空間を作り出している。


IMG_2367参道を進むとすぐに宗純王廟(墓)がある。
宗純とは一休宗純である。漫画でもお馴染みの一休さん(一休禅師)のお墓である。


「酬恩庵」の歴史を端折って記すと、元の名は妙勝寺、鎌倉時代に臨済宗の高僧が禅道場として建てたが、その後元弘の戦で荒廃。
1455-1456年に一休さん(63歳)が再興して「酬恩庵」と命名。
88歳没までの25年を過ごした事から後に「一休寺」の通称で知られるようになったそうだ。
81歳で大徳寺住職となりこの寺より通ったと説明書きにあったが、方丈内に展示される輿で通ったにしても片道五時間近くの道のり、本宅と別宅の使われ方であったのだろうと推察する。
話しはまだ続きがあり、一休さん没後134年後の元和元年大阪夏の陣の際、加賀三代藩主前田利常公が参詣で立寄り寺の荒廃を嘆き、一休禅師への崇敬の念より再興に乗り出し、更に35年後寄進により再建されている。
前田家の立回り如何では再興は無かった話かと思うとこの寺の歴史は面白い。


庫裏一休禅師の墓から更に足を進めると方丈への入口がある。
石段を下り、右手の唐門をくぐるのが本来だろうが現在閉ざされており、庫裏と称す建物から入館した。
下足棚の置かれる土間はよく見ると釜の焚き木をくべる口が三つ見る事が出来、勝手口から入ったことに気が付く。
黒光りした床板、煤で慰撫された梁や天井はまさに台所であり時食を整える場であった。
庫裏から引き戸一枚を抜けると、右手に南庭が観える。
真っ直ぐ進むと軒下は回廊になっており、方丈をぐるり廻る廊下の造りに成っている。

中央の一室は昭室と呼ばれ、奥まった高座には一休禅師の木像が安置されているが、あまりにも写実的な木像であったので、高座から「おっちゃん」に説教をされている感覚になった。
部屋を仕切る襖には狩野派の手による水墨画が描かれている。
狩野派と言えば豪華絢爛な色調による花鳥風月のイメージもあるが、水墨画の地味で奥行きを感じさせる描写によって空間に広がりを創り出している。

木像を背に南庭を眺める。
庭は方丈の周りを南東北と三つが囲むように配され、南庭はその面積が一番広くとられている。
白砂の敷かれる面積が大きいので龍安寺の様な枯山水かと思いきや、宗純王廟を背景にした、北側斜面に大小の玉造された「さつき」が植えこまれたさっぱりした庭である。
右隅に蘇鉄の木が植えられているが、素人のわたし的には楓もみじかマキの方が落ち着いたバランスに成るのではと思ったのはやはり素人だからだろう。
庭が広く取られている分ここちよい風が通り、居心地が良かったのでしばらく胡坐をかいてポツンとしていた。
回廊を左に回ると奥行きの狭い参道との隔たりを作る塀に沿った東庭が現れる。
説明では配置された大小の石が十六羅漢【釈迦より命をうけ正法(仏教の正しい教え)を守り、衆生(迷いを解く)役の16の弟子】をなぞっているとあったが、正直私には判らなかった。
更に回廊を左に回ると、そこはこじんまりとした北庭がある。
右奥の高位置に配置された巨石からは落水をイメージでき、水墨画を観ている様な雰囲気の枯山水庭園である。
庭園の説明では三つの庭は三名士による合作とされ、江戸初期のものとしては第一流で知られるとあるが、悔しいが私には良さを感じ取ることが出来なかった。

方丈を出て参道を奥に進む。
鐘楼は外観をぐるり見たが、だいぶ虫食いが進んでいるのがわかる。
慶安3年(1650年)前田家が新築と記録にあるが、370年近く修復は無かったのだろうか。

正面本堂に続く参道更に奥へと進むと小門があり、そこから望む本堂は画になる。
本堂の中を観ると、失礼ではあるがお勤めが行われているのか否か、手入れが成されている様に思えない。




本堂から右手に宝物殿、その奥に開山堂が配されている。
宝物殿は自由に出入り出来るようであり、下足を脱ぎ内観する。
監視カメラと警報装置はあるようだが方丈を出てから寺の関係者らしき人物は一人もみていない。
開山堂は大正時代に修復改築を行ったようで、しっかりと美しくそこに建っていた。
が………堂の裏に回ると一階軒は腐食が進んでいる様子で傾斜して崩れ落ちそうに見える。
シートがかけてあり雨による浸食を防ぐ策は行ってあったが早い修復が成されることを期待したい。

開山堂から右奥に進むと池に行きあたる。
時期が合えば睡蓮の花が鑑賞出来ただろうが時期を逸していた。
池の前に少年一休像が建っている。
頭のてっぺんがピカピカに光っているのは、拝観者が皆個々の思いを願い撫でて帰るからだそうだ。
私もあやかって頭と言わず顔中撫でまわしてきた。

順路に従い進むと小さな渡しがあり、立て札にはお馴染みの「このはし渡るべからず」が書かれていた。
一休禅師にならい真ん中を堂々と渡ってきた。

拝観中に訪れた方は一人も無く、二時間少々の時を貸切状態でゆっくりと拝観させて頂いた。

「酬恩庵」は派手さを感じず、「地味で質素」な寺のイメージが強かった。
方丈には狩野派の襖絵はあったが、鴨居の上には欄間もなく屏風で仕切る様な感覚を受け、三つの庭は江戸初期のものとしては第一流の評価だが、くせのないさっぱりとしたややもすると印象の薄い造りだ。
総じて「あるがまま」「なすがまま」の言葉が浮かんだ。
一休禅師の寺。
そう思えば何となく納得してしまい、贅沢な時を過ごさせて頂けた事に感謝して寺を後にした。

宿泊先で着替え錦市場界隈で夕食でもと京都駅に戻るとあいにくの雨。それも結構な雨量。
外での食事を断念して今日は宿泊先ですまし明日の天気を心配しつつ就寝することにした。