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ぶらっと京都(初夏3)大原宝泉院

勝林院正面 昼食をすまして宝泉院に向かうと直ぐに川幅の狭い津川に架かる未明橋を渡る。
橋からは緩い下り坂がまっすぐに勝林院まで続いていて、坂の途中から見える本堂は風格ある構えを見せていた。

これから訪れる宝泉院は、勝林院に四つあった僧坊の一つにあたり、他の三つは坂の途中左にあった実光院に統合されている。
統合された理由は、後鳥羽・順徳両天皇の大原陵を作る際に移動させた事によると何処かの説明にあった。

今回は勝林院本堂とその前庭を入口より眺めるにとどめ宝泉院へ向かうことにした。

宝泉院左に小径を入ると直ぐ右手に宝泉院へと通じる細い路地があり、歩みを進めると枝葉で遮られて外からは見えなかった門が目に入ってきた。
雰囲気のある門だと思ったのだが、ちょっとした疑問が生じた。
僧侶が寝食を行う集団生活の場の僧坊に門が有り、本堂のある勝林院に御門が無いのは何故なんだ?

未明橋より緩やかな坂道を下っていくと、何の障害物も無く勝林院の本堂にまで突き当たる。
毬を転がすと本堂の前まで何もせずに転がっていく様な感じだ。
何か意味があるのかな??? と思ったのだが、深く考えることはせず宝泉院の門をくぐる。

門をくぐると正面の木戸のむこうに樹齢700年の五葉の松が見えた。
五葉松の盆栽を巨大にしたものと単純に思っていたのだが、盆栽として見ると葉先の手入れがされず伸び放題で姿の出来が悪い松にしか見えない。

右手先の広くはない入口から建屋に入り廊下を進むと、左手に見えるのが鶴亀庭園だろうか、池の形が鶴、築山が亀、山茶花の 古木を蓬莱山とみる名園と言われているようだが、「んんン~」凡人は唸るだけだった。
廊下の右手に枠が切られた小さな間口があり、そこで給仕役の女性だろうか顔をのぞかせて「茶をお持ちするので客殿に」と奥へと促された。
間口の奥は居間の様で、住職らしき人物がパソコンに向かい、その奥さんらしい女性は擂粉木で抹茶を更に挽いている様がのぞき見えた。
血天井を意識して廊下を進んだのだが、自刃した血のシミはもはや説明がない限りは判別出来なかった。合掌して廊下を進んだ。

廊下を左に折れると正面に五葉の松の幹が目に入り、客殿に足を入れると右奥へと広がる座敷のその先には五葉の松から連なる盤桓園を望むことが出来る。
柱が視界に入るものの客殿の南庭から西庭が一望できる光景は奥行きこそ無い庭ではあるが、この時期竹林や青もみじと木々の緑のグラデーションとコントラストが目に優しく映り心地よい。

客殿中央の奥に座が設けられ、五葉の松をその座から鑑賞するように成っていたので座って観たが、正直傷んだ幹の修整部分が目立ち、盆栽鉢の内側から見ている様で何と表現すればよいか言葉が出ない。
不思議と拝観者は皆五葉の松を鑑賞していて、西側の盤桓園を鑑賞する者はいなかった。
茶を奨められたのでしばし茶をすすり他の拝観者に逆らうように西庭のもみじを楽しんでいた。

ここの庭を「額縁の庭園」と表現している様だが……………某社「そうだ、京都行こう」のパンフに出てきそうなキャッチフレーズには少々閉口してしまう。
柱と柱の間の空間を額縁に例えたのだろうが、元来日本家屋は障子窓、月見窓、猫間障子などと柱や桟を使い、庭の景観一部を切り取り、掛け軸に見立てるなどの表現技法は古くから用いられている。
ほかに日本らしい奥深い表現は無かったのだろうか………
水琴窟の涼しげな音を耳にして宝泉院を後にした。

宝泉院を出て三千院前の道を戻らず、すぐ脇に農道があったのでそちらを下りバス停に向かう。
時計を見ると三千院を訪れてから半日が過ぎていた。
寂光院を廻る予定でいたのだが、夕方からの予定に時間が足りそうも無く、次回の楽しみとすることにした。