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3-13 駆け足で京都(大徳寺総見院)

 地下鉄国際会館の駅に着き、さて次は何処へ向かうか・・・・・・・・
自宅を出る前に訪れてみたい先を十数か所リストアップはしたものの、最初に寂光院を訪れる以外は宿泊先も何も決めずに出発した。
大原もそうだが、西京区、左京区、北区の時間を要す所ばかりがリストアップされ絞り込みに迷う。
今日は接続の良い近場を巡り、明日はレンターカーで一気に回るも一案。
まずは北大路へ向かうことにした。

北大路からは歩いても然程距離が無い大徳寺に向かった。
春に訪れた際に総見院を拝観出来ず、改めての再訪となる。
目的は衣冠帯刀の木造織田信長坐像と樹齢400年の侘助椿。

総見院総見院は、信長の一周忌に追善法要の位牌所として秀吉が建立した寺院で、寺名は信長戒名よりとって命名されている。
創建当時は広大な境内に豪壮な堂塔が立ち並んでいたと言われているが、明治初年の「廃仏毀釈」により堂塔伽藍や多くの宝物が廃棄焼却されたようだ。
現在創建時から残る建物は正門、土塀、鐘、鐘楼だけとなる。

総見院本堂正門を入ると直ぐに本堂があり、堂内正面には位牌が並び、向かって一番左に織田信長坐像が安置されていた。
像は信長の等身大で身長は160cm程といわれており、当時の男性では大男の部類になるのではないだろうか。
面は何とも気難しくいかつい表情で、歴史物語に出てくる非情な人物があてはまる面だ。
長興寺に残る狩野宗秀作「信長肖像画」の面とは全くの別人であり、どちらが信長の本当の姿か奇である。

本堂から境内奥の織田家墓地に向かうと、本堂脇に侘助椿を見ます。
秀吉が千利休から譲り受けて植えたといわれ、樹齢400年で日本最古の侘助椿といわれています。
紅白の花が咲き、茶人に珍重される花ゆえ「茶花」と言われる所以であろう。
我が家の侘助椿は淡い桃色の花をつけるが、濃い赤に白が差すここの花も観てみたいものだ。

更に進むと、加藤清正が朝鮮から持ち帰った朝鮮石を彫りぬいた掘り抜き井戸がある。
井戸は結構深くたっぷりと水が湧いていた。
本堂で頂いた茶はこの井戸の水を使い、毎朝のお供えの水にも利用されていると説明があった。
余談になるがその昔京都右京は頻繁に洪水の被害を受けた地域であったようで、大徳寺境内の中を川が流れていた記録もある。
本山参道を境に法堂、山門側は古くから塔頭群もあったが、総見院側は今でいう造成地域にあたり塔頭が建てられたのは後であったようだ。
川は総見院の参道左側の墓地群辺りを北から南に流れていたのではないかと思われる。
…….と滾々と湧く井戸の水はそんな地形が理由かなと余談でした。

総見院信長墓石更に奥へ進むと突き当りに信長一族の墓石(7基)が建っていて、左奥には、正室の帰蝶(濃姫)、側室のお鍋の方の墓碑がありました。
信長の墓は各地にあるのですが、本能寺で遺骸が見つかって無いので諸説色々と語り継がれる事となっています。
総見院を菩提寺とするのは秀吉が「そうしたから」と言うことでしょうが、ここにも信長の遺骸、遺灰は無いので複雑です。

総見院茶室信長一族の墓石群から本堂を挟み反対の境内には茶室が三席あります。
信長を追悼するために開かれた大徳寺大茶会では、ここ総見院で、秀吉が自ら茶をたてたといわれていますが、それは方丈で行われています。
茶室は後に建てられたものですが見どころとしては、一番北にある寿安席(じゅあんせき)には一休禅師の掛け軸がかけられています。
龐庵(ほうあん)には、表千家・而妙斉(じみょうさい)の筆による扁額がかかっています。
香雲軒(こううんけん)には、んンン~ 8畳の茶室と、書院(20畳と12畳)があります(笑)

総見院鐘楼一つ疑問がありちょっと調べてみたのですが判りませんでした。
堀久太郎秀政の寄進による立派な鐘楼は何故塔頭の外にあるのか?
ご存じの方がいらっしゃいましたら是非お教えくださいm(__)m

これも余談ですが、大徳寺を後にする際、高桐院の前を通り参道を覗き入ると、門前の張り紙に「今月10日より拝観を再開いたします」とありました。
「えっ!」一瞬 なんだよぉ~ってな感じ
実は自宅を出る10日程前に高桐院に電話を入れ確認したところ、電話のむこうで愛想のない吾人が「皆目見当がつかない」と話されたので私は「今秋は駄目ですね」と会話をしたのですが、あの会話は何だったのでしょう。
四日後にまた来るかいっ⤴……….思案しながら北大路通りからバスに乗った。