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4-13 駆け足で京都(東寺)

 北大路で14時を少し回り日没まで3時間を切っている。
時間と相談して東寺に向かうことにした。
今日の宿は当日のディスカウントで取る事が出来るので、東寺を観てからでも探すことにした。

東寺南大門京都駅からは一番遠い九条通りに面した南大門より境内に入ることにした。
南大門の両袖に金剛力士像がみあたりません。
明治以前には東大寺南大門と同じ運慶作の仁王像が祀られてあったそうですが、明治元年に南大門が焼け落ち、仁王像も焼失したそうです。
その後門そのものの再建はされず、現在の門は三十三間堂の西門を明治28年に移築したようです。

東寺金堂1南大門をくぐる前から、目に入る巨大な存在の建屋が国宝指定の金堂。
桃山時代の建造といわれる金堂は、文明18年(1486年)に焼失したようで、現存する堂は豊臣秀頼により、慶長8年(1603年)に完成した建物だそうだ。
礎石や基壇、仏壇の位置、大きさ等は創建当時のままだという。
金堂内には、本尊の「薬師如来座像」を中心に、向かって右側に「日光菩薩」、左側に「月光菩薩」が安置されており、本尊の台座には「十二神将像」が配置されている。
不思議なのは、空海が唐から持ち帰った真言密教は「大日如来」が本尊とされるはずだが、東寺の本尊が「薬師如来」なのは何故だろうかと思った。
京の寺院で不思議?を感じて掘り下げると「複雑」に“はまる”ので思うだけで止めておく。

東寺講堂金堂の北側に建つのが講堂だ。
空海によって承和2年(835年)に建てられ「立体曼荼羅」で知れる堂だが、これも文明18年(1486年)に焼失しており、現在の講堂は延徳3年(1491年)に創建時の基壇の上に再建されたものであるという。
「立体曼荼羅」というとその言葉から何か凄いものを連想しますが、布の平面(二次元)に描かれる曼荼羅を、仏像を使用して立体(三次元)に置き換えたものです。
立体曼荼羅構成
壇上中央に「大日如来」を中心としたグループ、右側に「金剛波羅密多菩薩」を中心としたグループ、左側に「不動明王」を中心としたグループが構成され全21体の仏像が安置されているのですが、重なり合う為に全てを一度に観るのは難しいと思います。

堂内に立つと圧巻であり凄いの一言だが、当時の京で、立体曼荼羅などと大掛かりな他に類のない手の込んだものを何故創り上げたのか。
下種な想像をすると、思想とは別にして、空海の野心を見た気がした。
こんな表現を行うと批判もあると思いますが、これは私的妄想で悪意は無くゆえに関係者或いは気分を害された方にはご容赦をお願いしたい。

東寺五重塔3金堂の東側、境内の東南隅に東寺代名詞的存在の「国宝 五重塔」が建っている。
新幹線からも見えるので皆さんご存じかと思う。
天長3年(826年)に弘法大師が創建に着手し、約50年の長年月を経過した後、慶長年間に完成したと伝えられる。
その後、しばしば火災に遭い焼失、再建を繰り返したようで、現存のものは徳川家光の寄進により寛永21年(1644年)に再建したものとされている。
高さは約55mで、現存する木造の古塔では日本一高いといわれる。

日が陰り始める前に京都駅に向かいたい。
南大門から金堂、講堂を結ぶ直線上の最北に食堂(観音堂)があり、そこで御朱印を頂き慶賀門に向かうことにした。

東寺食道食堂(観音堂)は境内のほぼ中央にあり、かつては主要伽藍の一つで、本尊の千手観音像をはじめ重要な仏像も多数あり僧侶が生活の中に修行を見出す場所であったようです。
比叡山での後醍醐天皇との戦で大敗の知らせを受けた足利尊氏は、東寺に本陣を置き、この食堂に居住していたことがあるようだ。
1930年に火災で焼失し、今の建物はその後再建されたもので、レプリカの千手観音像が安置されている。
現在は納経所となっていて、写経場や催し場としても利用されている。