本日 72 人 - 昨日 12 人 - 累計 58862 人

2-13 駆け足で京都(寂光院)

 寂光院の創建については諸説あり明確なことはわかっていないらしい。
聖徳太子が父の菩提のため開創したとされるものが通説のようだが、創建云々よりも『平家物語』に登場する建礼門院隠棲のゆかりの地として知られている。

平清盛の娘建礼門院徳子は、高倉天皇の妻(中宮)で、安徳天皇の生母である。
壇ノ浦の戦において平家一族が滅亡した後は尼となり寂光院で平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈り余生を送っている。
後に徳子をたずねて後白河法皇が寂光院を訪れるが、この故事は『平家物語』諸本、説話集の『閑居友』「大原御幸」の段において語られ物語にある「諸行無常」を象徴している。

寂光院本堂画像入口になる木戸を抜けると右手に拝観受付があり、正面には石段が真っすぐ三門までのびている。
辺りはまだ色付始めたばかりで紅葉最盛には早かったようだ。
質素な造りの山門の正面に本堂がある。
本堂に進み本尊を拝むと、現代風な表情と色使いであったため、意外であり尼寺ならではなのかと感じたのだが、実は勉強不足で本堂は平成12年(2000年)5月9日の放火で焼失しており、現在の本堂は平成17年(2005年)6月再建されたものだった。
その際に本尊の地蔵菩薩立像(重文)も焼損、徳子の張り子像も焼けてしまっている。
本尊や徳子像も本堂同様に新しく作られたものであった。

画像寂光院諸行無常の鐘・汀の池本堂の前庭は、平家物語に書かれた当時の風景を今に残すと言われています。
後白河法皇は忍びで建礼門院を訪た大原御幸の際、こんな詩を詠んだとか。
「池水に汀(みぎわ)の桜散り敷きて 波の花こそ盛なりけれ」
詩に詠まれた「池水」と「汀の桜」が、今もなおこの庭園に残されています。
他にも平家物語の灌頂巻の一節に
「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる 中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」
平成12年の不審火で枯死した千年超えの樹齢を誇っていた千年姫子松(せんねんひめこまつ)がこの松そのものと言われ、現在は御神木として崇められています。
宝物殿「鳳智松殿」に収蔵される大原御幸絵巻から後白河法皇が訪れた際の様子と、境内の配置など窺うことができる。

画像寂光院庵室頭上境内西側苔むす杉林の中には、建礼門院が隠棲した庵室(粗末な屋)跡を示す碑が建っている。
碑を背に見回したとき、奥嵯峨祇王寺の草庵と前庭の苔むす様子が浮かんだ。
寂光院建礼門院庵室碑寂光院庵室前苔むす平家物語の一節に「たけきものも遂には滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」と訪れた後白河法皇は驚き涙したとされています。

建礼門院庵室の先、境内の一番西側に位置する収蔵庫に、平成12年の火災で表面を大きく損傷し直ちに保存処理がされ永久保存となった旧本尊の地蔵菩薩立像(重要文化財)をガラス越しに観ることができた。
像の体は確り成しており、表面が焼けて黒光りした様子からは一種独特な雰囲気が放たれ思わず合掌してしまった。
旧本尊が損傷する前の写真も展示されてあったが、忠実に再現されたと言われる現本尊よりもあきらかに“らしさ”のある表情の違いを感じこのまま本堂に祀られるべきではと思うのは私だけだろうか。

そうそう、寂光院で忘れてはいけないもう一つ知られる物がある。
建礼門院が,大原の里人から献上された夏野菜と赤紫蘇の漬物の美味しさに感動され,「紫葉漬け」と名づけられ、発祥の地と伝えられています。
ここを訪れる楽しみの一つにしていた「紫葉漬け」の事をすっかり忘れてしまい、寂光院を後にして地下鉄駅まで来たときに思い出したのは不覚だった。