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 菩提梯(ぼだいてい)とは、段差が大きく一段が約30cm、石段数は287段、高低差104m、傾斜角50度の非常に急な階段で、菩提=覚り、梯=かけはし を意味している。
「南無妙法蓮華経」のお題目、7文字を41遍唱えるとちょうど割り切れるため、 一段一段お題目を唱えながら上ると良いと言われている。
※(「妙法蓮華経」の五字には、お釈迦さまが多くの人を教え導いた智慧と慈悲の功徳が、全て備わっているといわれています)

演出としては、三門でお釈迦様、十六羅漢によって菩提に導かれ、菩提梯を上り悟りを得、久遠寺境内という浄土へ達するという流れでしょうか。

その2見上げると、上りきる辺りを這い上がるように上に向かう四人ほどのグループが見えた。
着衣の配色から察すると同年代かそれ以上。
ならばと勢い年齢も考えずに菩提梯を行き帰りと往復した。
結果翌日は大腿四頭筋、下腿三頭筋はパンパンに痛みを伴う張りを起こし、膝関節はガタガタ。
一週間経って緩和したものの、後を引く始末となった。
普段運動不足の方(特に還暦過の方)は無理をなさらず男坂か女坂を上ることを強くお勧めいたします。
(*車でお越しの方は、有料駐車場より斜行エレベーターで本堂脇に出るルートもあります)

菩提梯を上りきると正面が本堂、左手に朱の際立つ五重塔、右手には水屋と大鐘がある。

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身延山は寛保4年(1744年)から明治8年(1875年)の間に7度の大火をうけ施設の大半が被災している。
中でも文政12年(1829年)五重塔から出火し28棟を焼失し、山内寺中町方の大半も焼失。慶応元年(1865年)中谷の仙台坊から出火し支院17坊小堂8棟を焼失し、さらに延焼して上町、中町、上新町、横町、片隅町、下町の計100軒以上が焼失した。二つの大火は壊滅的なものであったようだ。
朱色の際立つ五重塔は、元和5年(1619年)建立の後二度の焼失を受け、近年2009年に再建されていた。

前回身延を訪れてから30年が経つ、本当にご無沙汰してしまった。
前回は御開帳を受け祈願を行い、御参りの後は温泉に浸かり宿泊という余裕ある日程で訪れたが、今回は日帰りの予定で参拝したため、そうゆっくりは出来ない。
菩提梯での息切れが治まるのを待ち本堂に向かった。

本堂の前では、ご夫婦らしき二組の男女が合掌して別々にお題目を上げていた。
一組はお年を召しており、もう一組は私より少し上ではないかと思えた。
私も合掌して故人に冥福を上げる。

本堂を離れ祖師堂から仏殿とお題目を唱え回り、御廟に向かう前に奥の院にも寄ることにした。
さすがに二時間余をかけて参道を行く時間も元気もない。
ロープーウェーを使い山頂まで7~8分で到着。

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ここまで来てようやくある事に気づいた。
久遠寺をお参りされている方達は宗徒が多い。
京都などの寺院は観光寺院を前面に出しているので、各地から老若男女が観光を目的に訪れているが、久遠寺は観光寺院のそれとは雰囲気が違う。
辺境の身延という地であっても、ユネスコの文化遺産に名でも挙がれば様子は違っているだろうが。
それでも絶え間なく訪れる者があるのは、日蓮宗の信者の多さかあるいは信仰の根強さだろうか。

奥の院のお参りを終え御廟に寄る。
日蓮聖人が身延入りしてこの西谷に草庵を構え修行にはいり、今の池上本行寺で病に倒れ亡くなるまでの9年をこの地で過ごしている。
「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は身延山に祀られた。
IMG_3600その2久遠寺の基はこの御廟所域に建てられたお堂を日蓮聖人が「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたのが始まりであり、身延山久遠寺は、まさにこの場所から始まっている。

山あいにある参道には、本堂境内や奥の院を訪れていた参拝者の姿は無く、静寂な空気の中、ときより鳥の鳴き声が響いていた。
IMG_3601その2常唱殿(御廟法務所)のある広く開けた先に霊山橋が架かり、その先が祖廟の建つ聖域になる。
祖廟は山峡の奥まった地にある
参道から拝殿に向かうあいだ誰一人会うこともなく、不思議な時間と空気を感じていた。

IMG_3602その2拝殿前の石段を上ると中央の礼盤?に静座し祈りを唱える先客が居た。
背後に気配を感じたのか、祈りを止め座を崩し拝殿を後にされたので遠慮なく祖廟塔(御墓)正面で合掌する。
人生百歳などと言われる昨今、疾うに折り返しは過ぎ終活に入る年齢になっているが、悩み、心配事は欲張って人並以上にある。
IMG_3603その2祖廟塔に向かい腹の底から諸々吐露し聞いていただいた。

参拝を終え拝殿の石段を下りると向こうから先ほど居た女性がすれ違いに上って来た。
少し離れた処から振り返ると、礼盤?に静座し祈りを始めていた。
どうやら中断して私に場を譲っていただいたようだ。

参拝を終え時間を見ると、日のあるうちに帰宅するにはギリギリの時間になっていた。
帰りは本栖を経由して富士山をみて帰ることにした。
健康で足腰の確かなうちに七面山にもお参りにうかがいたいものだ。
「心身ともに鍛えが足らん」と日蓮上人に指摘されたようである。
あと30年を目指し奮起せねば。

今日一日天候に恵まれたことに感謝して身延山を後にした。 合掌


PS:本栖湖では残念ながら富士山は姿をみせてくれませんでした。

IMG_3608最後に


 朝夕肌寒さを感じる陽気になった。
8月盆に姪の来宅訪問を受けた際、見慣れぬ車両で来ていたので姪の愛車の話となった。
以前に乗っていた車両もまだ持っていると言うので、陽気の良い間にShort Tripに貸せと承諾をとりつけておいた。

10月第二週、台風14号発生の予報を聞いて今シーズンは今しか無いと、翌朝7時には中央高速道を借用した単車に乗り甲府に向かっていた。RZ250初期型0001
この手の単車に乗るのは40年ほど前の愛車YAMAHA RZ250以来である。
2ストのRZとはだいぶ勝手が違い、大排気量でトルクのある4ストは実に楽である。
某自動車メーカーで二級整備士として活躍していた姪だけあって整備は万全文句なし。
単車の調子はスコブル良いが、乗っている方はとうに還暦を超え、運動不足と十数年ぶりの乗車に、操る側には大夫不安が残る。

IMG_3552その1Tシャツの上にリーバイスのGジャンを羽織る出で立ちでは少々寒いかと思いきや、風が実に気持ち良い陽気に気分は盛り上がる。
周囲の車速に合わせた単調な走りに飽き始めた頃、甲府南で高速を離れ、R140⇒R52を富士川沿いに身延山へ向かう。

IMG_3555その1R52を県道に逸れしばらく後、日石SSを右に折れると日蓮宗総本山久遠寺の総門が目前に現れる。
境内入口にそびえる総門は、28世日奠(にちでん)上人が寛文5年(1665年)に建立したとされている。

甲斐国巨摩郡飯野御牧内にある波木井郷(現在の南巨摩郡身延町梅平一帯)の地頭職であり、日蓮を庇護し信仰した有力壇越として知られる南部実長(なんぶ さねなが)が、鎌倉幕府に迫害され後に流罪を解かれ佐渡国から鎌倉に戻った日蓮聖人を文永11年(1274年)波木井郷へ招き、身延に迎えるときこの場所で対面したといわれている。
当初総門の屋根は檜皮葺だったようで、両脇の袖塀は後世に足されたものであるようだ。
近年傾いた控柱、腐朽の進んだ屋根などの保存修理工事が行われ、外観は当初の形を残すものであると何かの記事で見た記憶がある。

正面の扁額に記された「開会関(かいえかん)」の三文字は「一切の人々は、法華経の信仰によって仏になる」という意味で、この門を潜ることが即ち、仏の世界(あの世)に入ることであると意味している。

早速あの世へと門を抜けると、人通りのない狭い路地の両側に門前町らしき街並みが現れるが、どこの家屋も閉ざしており何とも活気のない、鄙びた温泉街を思わす光景の中を進む。
IMG_3559その1正面に階段が現れると道は細く右にクランクして、抜けるといきなり三門があらわれたのには意表をつかれた。

身延山久遠寺の三門は日本三大門の一に数えられている。
京都・南禅寺(臨済宗)、京都・知恩院(浄土宗)、山梨・久遠寺(日蓮宗)人によっては京都・東福寺(臨済宗)を数える方もあるようだ。
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三門正面に回りじっくりと眺めると、何故三大門に数えられているのかと思ってしまう。
大きさ、雅美しさ、迫力と、どれもさきにあげた三門に及ぶとは思えない。
個人的には南禅寺の三門は迫力に勝り好きである。
雅さでは思遠池正面より望む東福寺の三門が印象深く、大きさを誇るのは知恩院三門だろう。

IMG_3567その1お許しいただき表現すれば、侘しさと閑寂な様相を感じさせ、この辺境の身延で「侘・寂」感はピントこない。
それでも周囲の間近に迫る山と、三門より臨める杉並木と石畳の参道が妙にマッチしている。
建立は寛永十九年(1642年)とされているが、慶応元年(1865年)に焼失し、明治四十年(1907年)に再建されている。

三門を潜り日朝上人お手植えの杉並木を進むと、還暦をとうに超えた年寄りに、壁の様に行く手を遮る菩提梯(ぼだいてい)という試練が待ちうけていた。
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 朝の8:10分、烏丸今出川交差点のバス停で賀茂大橋方面へ向かうバスを待つ。
河原町今出川交差点まで二停留所の距離だが、今朝は流石に歩いて向かう気にはなれない・・・・と言うよりも歳のせいか体が拒否していた(笑)

出町ふたばの店先には既に10人ほどが列を作っていた。
流石に観光客は見当たらず皆常連の様子だ。
事前に連絡してあったのだろう。名を告げて包装された菓子を受け取り支払いを済ましている。
そんなわけで私の順番は直ぐに回ってきた。

出町ふたばの豆餅ふたばの名代といえば、やはり「豆餅」(だいふく)だろう。
赤エンドウは、しっかりとした歯ごたえが残り、程よい塩味と餡の上品な甘さ、その餡を包み込む餅の弾力が絶妙なバランスの逸品。
豆餅22個と赤飯で締めて¥4,900-
紙袋を携え横断歩道を渡り、地蔵尊の脇を抜け賀茂川河川敷のベンチへ直行。
今出川駅で仕入れていた茶と、紙袋から豆餅二つを取り出し早速いただく。
年甲斐もなく豆餅二つはあっさりと胃袋に収まった。

次は何処に向かうか?
慈照寺近く、鹿ヶ谷通り沿いの和菓子店に行くか。
丸太町駅からチョイ歩き、釜座通(かまんざどおり)裏手、西洞院通りにある老舗店に行くか
帰り時間の都合と初物を頂くことで丸太町へ向かうことにした。

再びバスで今出川の駅へ。
丸太町駅からは丸太通りを二条城方面に歩く。
本番前とは言え、京都の夏を感じさせる陽気に、手拭で汗を拭きふき歩くことになった。
IMG_3533IMG_3532釜座通りをやり過ごし、一方通行の出口を右折して西洞院通りに入ると、間もなく目的の店「麩嘉」本店が見えてきた。
住宅街の中に如何にもと存在感のある造りの家屋なので直ぐに判る。

「麩嘉」は京の食材で欠かすことの出来ない生麩を扱う専門店だ。
京より東国の地域では生麩といっても馴染みの薄い食材になるが、こと京都の食では語りきれぬ程の歴史と文化の詰まった食材だ。
その生麩専門店が甘味の「麩饅頭」なるものを提供している。
どうやら生麩が好物であった明治天皇のアイデアでつくられるようになった様だが、今や凡人の私でも知る一品なので、京を知る方達にはメジャーな存在だと思う。

今更説明は不要と思うが念のため。
「麩嘉」本店は造り処であるため、陳列ケースも無ければ飲食設備もない。
基本的に本店では小売りは行っていないのだが、唯一予約を入れて購入数量を注文しておくと嬉しいことに対応をしていただける。
その場で食す事も予約で伝えておけば準備していただける。

店先の暖簾をくぐり四伍坪ほどの土間から奥に声を掛けると、奥から三角巾を頭に被る女性が出てきて応対してくれた。
左の壁際にある長いすを勧められ、間もなくお盆に乗った麩饅頭と茶が運ばれてきた。
なるほど、この長椅子に座って食すのか。
麩嘉の麩饅頭連れを伴っていたら、二人で満席だな…..と想像してみた。
それにしても楊枝も無く素手でいただくとは予想していなかった。
気取りが無くそれはそれでいいのだが、濡れた笹葉を指先でほどき、饅頭を摘まんでいただいた後の指先を想像していただきたい。

IMG_3535長椅子に腰かけると正面は和室が設えてあるが、床(とこ)が造りこまれてあるので今で言う来客商談室とでも言うところだろうか。
畳敷きの一部に板が被せてあるのは囲炉裏でもあるのか?それにしては自在鉤が見当たらない…….など饅頭を口にする前にあれこれと想像してしまう。

一口でいける饅頭を口に放り込む。
“つるっ”とした舌ざわりに一噛みすると“もちっ”とした食感と、後から来る品の良い甘さの餡で、三つ四つまとめて頂きたいほど後を引く。

小売りをしていないので訪れる客は皆無。
店先の土間で店員もおらず、静にいただく甘味も京都だと思うとお洒落っぽい。
コロナ肺炎が治まったら今度は連れを伴って伺うことにしよう。
食を終えたことを伝え注文していた20個の麩饅頭を受け取り店を後にした。

新幹線ホームは人もまばらで、いつも見る様子とは全く異なっていた。
出張や観光自粛の効果は思った以上にあったようだ。
新幹線の一車両には20人程しか乗車しておらずこんなことがあるのかとビックリした。
思い切って京都を訪れたのはタイミング的に良かった様だ。







「こそっと京都に」の時期は7月第一週でした。
COVID-19肺炎感染拡大兆しの中でのTripに、いつになく所作には慎重を期した移動でしたが、幸いにして三密となる場面は市内電車の移動時だけだったと思います。
ひと月経ち、京都府の感染状況は千葉、神奈川、愛知とほぼほぼの感染拡大状況です。
しばらくは媒介者にならぬよう自粛して、次の計画をどうするかと楽しむことといたします。

 半世紀ぶりに西芳寺を訪れる。
市営東西線太泰天神川駅から京都バス83系に乗り、渡月橋を経由して30分程で苔寺・す人通りが途絶えた渡月橋ず虫寺折返し停留所に到着した。
途中バスの車窓から見た渡月橋の様子は、COVID-19肺炎の影響で、人通りが消え、シャッターを下ろす店舗が目につき、半年前までは想像すらできなかった様子に目を疑った。
早期の終息と営業の回復を祈るばかりである。

IMG_3423西方寺総門バスを降り案内板を頼りに歩きだす。
さすがに当時の記憶は無いに等しく、初めての地を歩くようなものだ。
歩き始めて間もなく右手に総門を観る事ができるが、普段は閉門されており、境内に入るには更に100m余ほど先にある衆妙門より境内に入る。
道は緩やかに上り、緑しげる寺院との境を西芳寺川が流れている。

IMG_3426西方寺川  IMG_3425衆妙門
西方寺の寺歴縁起(由来や言い伝え)は飛鳥時代聖徳太子に端を発しているようだ。
聞き覚えのある歴史上人物の名も挙がるが、飛鳥時代、奈良時代、平安時代前期までの寺歴に於いては大半が縁起におけるもので、様々な説は伝えられるものの、確固たる証拠が見つかっておらず、あまり詳しいことはわかってないらしい。
南北朝時代に浄土宗から臨済宗に改宗され、この時期に臨済宗の僧 夢窓疎石(むそう そせき)により現在の基となる庭園が作庭されている。

夢窓疎石についてサクッと触れておく。
「僧は後醍醐天皇にその才覚を見出され、幅広い層からの支持を受け、室町幕府初代将軍の足利尊氏・直義兄弟からも崇敬されていたと言われている。
八歳で天台宗平塩山寺に入り七十七歳で没するまで、禅宗僧の上位格を追い求めることをせず、鎌倉、北山、甲斐、遠江、美濃、土佐、三浦、上総等々と移り修行を続け、夢窓派として門下は13,000余の支持を数えるという。
禅僧としての業績の他、禅庭・枯山水の完成者とし最高の作庭家の一人にあげられ、彼の作とされる天龍寺庭園と西芳寺庭園は京都文化財の一部として世界遺産に登録されている。
夢窓疎石の禅庭は、連歌・歌論や世阿弥の猿楽(能楽)とともに、わび・さび・幽玄(奥深・神秘的深み)と表現される日本の伝統美の礎を築き、今日なお影響をあたえ続けている人物と言える」


衆妙門前で開門を待つ拝観者の数は想像以上に少ない。
流石にCOVID-19肺炎感染を懸念して皆さん自粛しているのだろうか。

IMG_3430総門に続く石敷きの参道IMG_3429衆妙門正面石畳参道衆妙門の脇戸より境内に入ると、真っすぐ奥の庫裡に向かう石畳の参道と、右手に苔の中を抜け総門に続く石敷の参道(こちらは入場禁止)が目に入る。
石畳の参道を進み、本堂(西来堂)を左に観て玄関(宗務所)より屋内に入ると、写経場となる本堂へと案内された。

IMG_3433本堂(西来堂)ご存知とは思うが、西芳寺は日一回の拝観と拝観者の数に制限を設けている。
希望者には事前に“往復はがき”のみで申込受付を行い、当日は拝観の条件として、まず写経を行い、その後境内庭園の散策を行うことになっている(※冬季は庭園の散策は行っていない)
また開門から閉門時間までが凡そ二時間で、拝観者は閉門までには散策を終え寺院より退場する。
以前は多くの寺院同様に誰でも参観できる観光寺院だったのだが、1977年7月を最後に今の拝観方法へと移行して来た。

本堂中央の宮殿には御本尊 阿弥陀三尊像が安置(寺歴では浄土宗から臨済宗へ改宗した経緯があり、寺歴を尊び、禅寺にあっても、釈迦如来を祀らず阿弥陀三尊像を残したらしい)されている。
外陣は御本尊正面から向拝にかけ間が空けられ、間の左右に経机が並びここで写経を行う。
正座、胡坐の姿勢が執れない方ように広縁にはテーブルと椅子も準備されていた。
延命十句観音経写経に用いるのは『般若心経』とばかり思っていたので、そこそこ時間はかかる予想をしていたのだが、経机にあったのは『延命十句観音経』(えんめいじっくかんのんぎょう)であった。
十句観音経はわずか42文字の最も短い経典として知られる偽経で、実に都合のいい経だ。
コロナ肺炎感染拡散防止か、それとも希望者が少なかったのか定かでは無いが、この日の拝観者は少なく、写経を終え庭園の散策に向かう人で本堂内は早々に空席が目立ち始めた。

庭園は趣が異なる上下二段二つの庭園があり、下段に浄土風の黄金池(おうごんち)と呼ばれる池泉を中心とする池泉回遊式庭園、上段は洪隠山(こういんざん)と呼ばれる山の斜面に三段組みの枯滝石組を配した枯山水庭園で構成されている。

IMG_3439観音堂IMG_3438庫裡宗務所を出て庫裡の前を抜け、結構な高さの土塀にある庭門をぬけると、庭園西側の南向きに建つ観音堂がある。
観音堂は西来堂(本堂)ができるまで本堂の役目を果たし、内部仏間に聖観音菩薩立像を祀ってあるようだが、板戸と正面の障子戸は閉ざされ拝覧はかなわなかった。

観音堂からは下段の池泉回遊式庭園が目の前に広がる。
訪れた日は天気も良く、周回する歩道を散策すると、樹木が作る陰影と、差し込む日で作られる苔のグラデーションが目を楽しませてくれた。

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庭園内には少庵堂、湘南亭、潭北亭(たんほくてい)と三つの茶室がある。湘南亭は重要文化財に指定されており、千利休が一時利用したとの言い伝えと幕末期攘夷派から逃れるためIMG_3454湘南亭公家 岩倉具視が隠れ住んだ記録が残されている。

何かで拾い読みした記事に、庭園は作庭当初は苔など生えてなく、苔におおわれるようになったのは江戸時代の末期と“言われている”とあった。
別の記事には、池泉回遊式庭園は隣接する西芳寺川より低い湿地で、境内と庭園を仕切る土塀により外気の流入が遮られ苔の繁殖に適した環境が維持されているともあった。

室町時代には応仁の乱・文明の乱で荒らされ更に洪水の被害もあり、荒廃した時期を経て再興されるも、江戸時代寛永年間・元禄年間と再び洪水の被害を受け寺院の建造物はほぼ流出している。

戦火と度重なる洪水の被害に見舞われ辛うじて存続はしたようだが、伽藍の復興が叶ったのは明治時代に入ってからで、現在の伽藍のほとんどは、この明治時代の復興期に再建されているとある。
現在の本堂、書院、宗務所にあっては、昭和に入ってから建造されている。
IMG_3470指東庵(開山堂)IMG_3465向上関
池泉回遊式庭園の散策は北側に移ると向上関(こうじょうかん)を抜け石段・石垣の通宵路を通り枯山水式「洪隠山石組」に至る。
指東庵(開山堂)の東側にあるこの石組は夢窓疎石による作庭当初のものであり、日本最古の禅宗庭園といわれている。

浄土風の池泉中心とする池泉回遊式庭園を散策した後に、石組枯山水庭園となると、はてさてどの様な様相を見せてくれるのか。

IMG_3472洪隠山石組多くの寺院での枯山水庭園を見慣れてしまうと、様子が異なることに戸惑いを感じた方もあるかと思う。
ちょっと雨でも降ろうものなら、そこには小渓が現れるのではと思える自然の中に存在する涸れ沢そのものであった。
作庭当初には苔は無かった様だが、今の様相を夢窓疎石は想像できていたであろうか。

蛇足になるが、「洪隠山石組」を観て思い浮かんだ景観がある。
山梨県の笹子トンネル入り口近くに「日川」という小渓があり、上流の天目山を抜ける峠道に沿ってその川は流れている。
以前は暇をみては「日川」の清流でイワナと遊んでいた。
清流の中を上流に向かうと、竿を置き岩に腰を下ろし、しばしその景観に見入ってしまう美しい流れがある。
自然の石が幾重にも連なり、一つ一つの石には苔が生し、その間を清流が流れている。
夢窓疎石は幼少期山梨に住み仏門に入ったとあり、後に恵林寺(甲府市)の創建をしている。
もしかすると同じような景観を目にしていたのかも?と妄想をしてしまった(笑)
因みに天目山の峠付近には臨済宗建長寺派の古寺がある。

西方寺を訪れ、楽しみにしていたが叶わなかった事が一つ。
冒頭に“当時の記憶は無いに等しく”としたが、苔の緑深い、少々くすんだ明るさの神秘的で神々しい空間の中を、真っすぐに敷石の上を歩いた記憶だけ鮮明に残っている。
庭園を散策し、半世紀ぶりにその光景を観る事が出来ると期待していたが目にすることはなかった。
記憶違いであったのか寺院が違うかとも思ったが、どうやら総門から中門にかけての景観がそれに近いと知った。
訪れた当時は、総門から中門を抜け、庫裡の前を通り庭園を散策したようだ。
脳裏に強く残る様子なので、私的にはこの寺院の一番の見所では無いかと勝手に決めている(笑)
総門から入境できるタイミングがあれば今一度ここを訪れようと西芳寺を後にした。

 承天閣美術館は10月末までコロナ休館と判っていたのに美術館に近い鞍馬口で地下鉄を降りてしまった。
歩き始めてから気が付き駅に戻るのも面倒なのでそのまま歩いて向かった。
美術館が休館ということで、相国寺には総門より境内に入り歩きたいと単純な理由だった。
烏丸通りを今出川交差点で左折、同志社大の前を通り総門を目指しひたすら歩いた。
端から今出川で降りていれば直ぐであったのに、初老には結構しんどい距離だった。

京を巡り相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である金閣寺(鹿苑寺)や銀閣寺(慈照寺)は訪れても、相国寺へ足を運ぶ者はそうは無いと思う。
ましてや訪日外国人だと、よほど通な方でない限り全く興味の無い或いは名も知らぬ寺と想像する。
小生も勉強不足で、相国寺僧侶が任期制で、鹿苑寺、慈照寺の運営をお勤めとして担当していたのは恥かしながら最近になって知った。

相国寺は室町幕府三代将軍の足利義満により創建されている。
義満が武士、公家、宗教統制と幕府への一元化を図り進めたことで、公家の権力は低下し庇護を受けていた天台宗・真言宗などは衰退する。
義満は鎌倉幕府時代より武士に支持される禅宗とその一派臨済宗を重用し、五山十刹の制を定め南禅寺を別格の筆頭に据え、以下天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の京都五山を定め保護するとともに幕府の権威を強めていった。
簡単に言えば権力闘争の道具に使ったわけで、五山の寺格に於いても、天皇が贔屓にする大徳寺を、足利義満が支持する寺を格上するが為に五山から外し格下の扱いにしている。
相国寺は義満の権威を誇示するための象徴だった存在と言える。

相国寺は幾度の失火、戦(応仁の乱、天文の乱)により大半を焼失し、豊臣や徳川により再興されているが、再度の焼失や戦により権威の象徴であった高さ109mの七重大塔、三門、仏殿は再建されず今日に至っている。
IMG_3389相国寺勅使門IMG_3388相国寺総門
総門から見る境内は、石敷きの参道が真っすぐと庫裡まで延びている。
左手には勅使門が観られるが、二つの門は意外にも質素な造りだ。

IMG_3390相国寺勅使門より続く放生池と天界橋IMG_3391門をくぐると左手には放生池(ほうじょうち)があり、中央には勅使門から続く天界橋と呼ばれる石橋が架かっている。
天界橋を背にすると、木々の間から法堂を見る事ができ、樹木の間に三門と仏殿の基石が残っているのがわかる。
基石の様子から想像すると、建物はさほど大きなものでは無かった様にうかがえる。

IMG_3397相国寺法堂IMG_3412法堂は豊臣秀頼により再建され、現存する法堂建築様式としては、日本最古のもののようだ。
両側には花頭窓(かとうまど)が施され「禅宗様」建築の雰囲気があり、小振りで迫力に欠ける法堂だが、それでいて清楚な落ち着きを漂わせていた。

この法堂は仏殿も兼ねているようで、須弥壇(しゅみだん)には本尊である釈迦如来像、脇侍(わきじ)には阿難尊者(あなんそんじゃ)、迦葉尊者(かしょうそんじゃ)の像が祀られている。
IMG_3402鏡天井には、安土桃山時代の絵師狩野光信筆の蟠龍図(ばんりゅうず:地面にうずくまってとぐろを巻き、まだ天に昇らない龍の図)が描かれている。
禅宗寺院の法堂によくみられる仏法を保護するという龍の図は、「水を司る神」ともいわれ僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から守ると信じられ、堂内の特定の場所で手を叩くと音が堂内に反響し、鳴き龍とも呼ばれている。    

境内は三門、仏殿、法堂、方丈が一直線上に並び、両脇を挟むように舗装された参道が通され、おもな寺院の建物はその参道に面して整然と並ぶように配置されている。

       IMG_3394相国寺経蔵   IMG_3409相国寺鎮守
       IMG_3407相国寺弁天社   IMG_3403相国寺洪音楼
境内を散策していると不思議とタクシーがよく通る。
どうやら塔頭長得院の脇を通りぬける裏道として使用されているようだ。
珍しくおおらかでお構いない寺院である。

境内の散策を終え、ふっと竹取物語の冒頭に出てくる「今は昔」の言葉が浮かんだ。
大寺院の風格、足利義満の築いた権威の象徴であった面影を、600余年を過ぎし今、歴史と重ね観る事で感じとることが出来ずものたりなさを感じた。

またここを訪れなければいけないなっ

承天閣美術館を訪れ、禅宗の規律、茶礼を基本とした茶道華道の発展の足跡、若冲の筆、方丈の前庭と裏庭、開山塔の「山水の庭」と「枯山水平庭」の異なる形態の庭が一緒になっているという珍しい庭。
これらを拝観した後に相国寺の総括かな。

久々物足りない“もやもや”とした気持ちで訪れた道を戻った。

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